トニービン
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この記事は「旧馬齢表記」が採用されており、国際的な表記法や2001年以降の日本国内の表記とは異なっています。詳しくは馬齢#日本における馬齢表記を参照してください。

トニービン
品種サラブレッド
性別
毛色鹿毛
生誕1983年4月7日
死没2000年3月10日(17歳没・旧18歳)
Kampala
母Severn Bridge
母の父Hornbeam
生国 アイルランド
生産者P.J.B.オカラハン
馬主Mrs.Del Bono Gaucci
Allevamento White Star
調教師Luigi Camici(イタリア
競走成績
生涯成績27戦15勝
獲得賞金1,230,300,000リラ、
7,078,250フラン、
39,028ポンド、
9,500,000円
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トニービン (Tony Bin) はアイルランド生まれの競走馬である。イタリア調教馬としてモルヴェド以来27年ぶりに凱旋門賞を制した[1]。引退後は日本種牡馬として活躍した。
競走馬時代

アイルランドのセリ市で、日本円にして約65万円でイタリア人実業家のルチアーノ・ガウッチ(英語版)に購入された[2]調教師はイタリアのルイジ・カミーチ。1985年から1988年の現役生活で27戦15勝の戦績を残した[3]

デビュー戦で初勝利をあげ、イタリアGIグランクリテリウムで3着となるものの、4歳まではダービーイタリアーノ4着、イタリア大賞3着、ジョッキークラブ大賞2着と善戦止まりであった[3]

5歳になるとミラノ大賞典、ジョッキークラブ大賞を含む4連勝を達成し、フランスおよびイギリスへと遠征。サンクルー大賞ではセントレジャーステークス覇者のムーンマッドネス(英語版)の2着と健闘する[1]。11頭立て11番人気で挑んだヨーロッパ下半期最高峰のGI凱旋門賞では、鞍上キャッシュ・アスムッセンの好騎乗に導かれて2着となる波乱を演出した[1]

6歳時にはイタリア共和国大統領賞、ミラノ大賞典を連勝し、再び外国遠征を敢行する。キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスにてムトトの3着に入ると、イタリアのフェデリコテシオ賞から連闘で凱旋門賞へ出走した。凱旋門賞では単勝14.9倍の5番人気であったが、最終コーナー12番手から直線で鋭い伸び脚を見せ、1番人気ムトトの追撃をクビ差抑えて優勝した。勝ちタイムは2分27秒3と、凱旋門賞史上2位のタイムであった[1]。この年の凱旋門賞はソウルオリンピックの最終日と重なっており、男子マラソンジェリンド・ボルディンの優勝とともにイタリア国内を大いに湧かせた[1]
ジャパンカップ

この活躍が評価され、トニービンはジャパンカップ(GI)に招待されることとなった。現役最終戦となった日本遠征では、競走馬の空輸を内規で禁止していたアリタリア航空が、自ら望んでトニービンの輸送へ手を上げた[1]ヨーロッパアメリカオセアニア、そしてアジア日本の代表馬が集結したこのレースは「四大陸決戦」[4]と呼ばれ、その中でも凱旋門賞馬トニービンの出走は大きな注目を集めた[5]。カミーチ調教師は「われわれは、勝つことしか考えていない」[1]、「3馬身離して勝つ」[6]と宣言し、ライバルとしては日本のタマモクロスを挙げた[注釈 1][1]

レースでは、日本のメジロデュレンがスローペースで逃げる中で中団に位置し[7]、4コーナーではペイザバトラーやタマモクロスらの後方から進出を開始した[8]。しかし、最終直線での伸びを欠いて1着から0.4秒差の5着に終わった[8]。トニービンはレース中に骨折を発症しており、ジャパンカップを最後に引退した[3]。トニービンの新たなオーナーとなっていた社台ファーム吉田照哉はペイザバトラーを勝利に導いたクリス・マッキャロンの騎乗に感銘を受け、レース後には「米国の騎手を起用すれば…」との感想を漏らしている[注釈 2][9]
種牡馬時代

引退後、日本社台グループが購入し、日本で種牡馬生活を送ることになる。1994年日本リーディングサイアーを獲得。数多くの活躍馬を出したが、2000年3月10日に急性心不全のために死亡した。このため2001年産がラストクロップとなり、最終年は種付け期間中の死亡であったため、中央競馬に登録されたのはわずか4頭であった。

産駒は東京競馬場との相性がよく、産駒獲得GIのほとんどが東京競馬場での勝利である。産駒は東京競馬場で行われる芝のGIレース(2006年新設のヴィクトリアマイルを除く)を完全制覇している。

2009年7月1日に、ジュラナスリング(2000年産)が引退したことによりすべての産駒が中央競馬より姿を消した。

産駒の種牡馬成績は、ジャングルポケットや1勝ながら種牡馬入りしたミラクルアドマイヤがGI馬を出しており、孫世代のカンパニートーセンジョーダンなどが種牡馬入りをしている。ひ孫世代で種牡馬入りした馬はいない。2023年現在、トニービン系種牡馬はオウケンブルースリが引退し[10]、トーセンジョーダンもプライベート種牡馬[11]となっている事から存続の危機を迎えている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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