トト_(俳優)
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トト
Toto

生年月日 (1898-02-15) 1898年2月15日
没年月日 (1967-04-15) 1967年4月15日(69歳没)
出生地 イタリア王国 ナポリ
死没地 イタリア ローマ
国籍 イタリア
配偶者Liliana Castagnola (1929-1930)
Franca Faldini (1952-1967)
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トト(Toto イタリア発音 [to?t?], 1898年2月15日ナポリ生まれ-1967年4月15日ローマで没)は、イタリア喜劇俳優である。
概要

本名はアントニオ=グリッフォ=フォカス=フラヴィオ=アンジェロ=ドゥカス=コムネオ=ポルフィロゲニト・ガリアルディ・デ=クルティス=ディ=ビザンツィオ Antonio Griffo Focas Flavio Angelo Ducas Comneno Porfirogenito Gagliardi De Curtis di Bisanzio、通常はアントニオ・デ=クルティス Antonio De Curtis。

イタリア喜劇の象徴的な俳優であり、「爆笑の王子」と呼ばれた彼は、また喜劇のみならず映画及び舞台俳優としても重要な一人としてみなされており、また演技の他にも作家、歌手、作曲家としての活動も見られた。20世紀を代表するイタリアのアーティストである。

出生名アントニオ=ヴィンツェンツォ=ステファノ・クレメンテAntonio Vincenzo Stefano Clementeとして軍人の父ジュゼッペ・デ=クルティスの婚外子として母アンナ・クレメンテAnna Clementeの間に生まれたアントニオは、軍人のフランチェスコ=マリア・ガリアルディ=フォカスの養子となった。

彼の業績は、喜劇の伝統や、バスター・キートンチャーリー・チャップリン、さらにはマルクス兄弟やエットーレ・ペトロリーニ(イタリア語版)といった喜劇俳優たちと並んで、50年にも及ぶキャリアを持ち、50本以上の演劇、97本の映画、9本のテレビ映画へ出演し、さらにその多くで主役を演じた。最後は必ずしっぺ返しを食うオチがほとんどの彼の映画は、イタリアにおける観客動員数を更新し続けた。長年の舞台の経験によって磨かれたその独特の演技は、時には素晴らしく書かれた台本通りに、時には彼自身の責任によるアドリブで、脈絡網膜炎に病んだ晩年まで演じられた。映画業界の危機によって何度もそのキャリアを中断し、また彼自身何度か行方をくらませたにもかかわらず、彼は常にイタリア喜劇における大衆的な存在であり続けている。

元ジャーナリストで彼の伴侶のフランカ・ファルディーニ(イタリア語版)は、トトの死後作家に転じ、1977年に評伝「トト、男と仮面 Toto: l'uomo e la maschera」をゴッフレード・フォーフィと共著した。その中では映画の外での芸術家としての彼の姿や、妻としての視点で見た彼の素顔が描かれている。

「私の葬式は十分美しいものになるだろう。なぜならそこには言葉が、大言壮語が、賛辞があり、私を大俳優だとほめそやかすからである。なぜならここはとても美しい国で、しかしながら死が必要だと認識しつつあるからだ」--フランカ・ファルディーニ「トト、男と仮面」1977年
経歴
サニタ地区の悪戯小僧

トト、本名アントニオは1898年2月15日にナポリマフィアであるカモッラの活動中心部であるサニタ地区のサンタ=マリア・アンテセクラ通り109番地の家の2階で生まれた。母アンナ・クレメンテは父ジュゼッペ・デ=クルティスの婚外子としてアントニオを産んでおり、「アントニオ・クレメンティ、母アンナ・クレメンティと何某との子」として知られ、やがて地域でトトとあだ名されるようになった。

孤独で陰鬱な性格で、極度に貧乏な環境で育った彼は、子供時代の終わりには芸術家になることを強く志して学業を放棄し、それによって小学校4年生だった彼は3年生へと降格された。授業妨害を多くしたわけでもなく、しかめ面や喧嘩を隠して、むしろ級友に面白い話をして楽しませることが常だった。幼き彼は度々物陰からこっそり人々を観察することに一日を費やし、とりわけ奇人に見える人を探しては、その仕草をものまねして、そのため人々から「おおスパイよ」と言われるまでになった。この好奇心を持った観察の仕方は、後年彼のキャリアで様々な役を演じるのに役に立った。

小学校を卒業した彼はチミノ中学校に入学し、ある教師との些細な事故で、懲罰に受けた拳骨がもとで、彼の鼻と顎は特徴ある形に曲がった。これが彼の「マスク」を作り上げた逸話である。高校では勉学をせずに中退した。母は彼を聖職者にしようと考えており、子供の頃は教会でミサの従者を務めさせられたが、家の中の小さな祈りですら消極的だった。ヴァラエティーショーに夢中になったまだ幼き彼は、苗字から取ったフランス語風のあだ名「クレマン」を名乗って劇場に頻繁に出入りするようになり、当時のナポリの著名な俳優グスターヴォ・デ・マルコの劇を真似て覚え、さらにそれを人形劇で再現するに至った。この時期、エドゥアルド・デ・フィリッポとペッピーノ・デ・フィリッポの兄弟、また音楽家のチェザーレ・アンドレア・ビクシオ、アルマンド・フラーニャと知り合った。

第1次世界大戦の期間中、彼はイタリア王国軍に志願し、第22歩兵連隊に所属し、ピサペーシャに駐屯した。その後、郷土守備軍第182大隊に転属してピエモンテ州の基地に配属されたが、対フランス戦線へと送られることとなった。アレッサンドリアの基地で、剣で武装した司令官は、性癖の奇妙さで恐れられているモロッコ人部隊と寝台車を共有しなければならないと通告した。この時に恐れおののいたトトは、仮病を演じて軍病院へと転送され、こうしてフランス戦線行きを免れたという。わずかな入院期間の後、第88歩兵連隊に転属されてリヴォルノに配属されたが、下士官から侮辱を受けた。このことは彼の有名なモットー「我々は人間か、(いばりちらす)下士官か?」となった。
最初のエピソードと「ヴァリエテ」

兵役後も彼は海兵隊に務めなければならなかったが、規律をこなさなかった彼は逃亡し、喜劇役者として活動し始め、『ベル・チッチーロ(美しい贅肉)』や『夜のイヴォンヌ』で知られる芸人エドゥアルド・ダチェルノの脚本家となった。そののちサラ(劇場)・ナポリでの最初の舞台でナポリ歌謡の歌手E. A. マリオのパロディを演じて成功し、テアトロ(劇場)・オルフェオの俳優ニーノ・タラントの目に止まった。

20代の初め、母は軍人のフランチェスコ=マリア・ガリアルディ=フォカスと再婚し、彼の養子となる。この新しい家族は、両親への反対にもかかわらず、つまりトトが後年「途方もない」と書いたように、何の得になる要素も、堕落した大根役者で構成された三流劇場の支配人ウンベルト・カペーチェの代償もなく、ローマに移住した。こうしてトトはコンメディア・デッラルテに出演するようになり、プルチネッラを演じ、観衆からの特別な評価を稼いだ。しかしながら、この若者が劇場で成功するにはまだ少なからぬ苦難が必要であった。給料もなく、トラムの切符さえ買えない彼は、インディペンデンツァ広場から街の反対にある(ヴァチカン市国に隣接する)リソルジメント広場までたどり着くのに、冬の寒さの中で僅か数銭を求めて物乞いする有様であり、これもまた「途方もない」状態であった。このような事態はトトの心身にとって辛く、いやいやながらトトは劇場から去って行った。


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