トクヴィル
[Wikipedia|▼Menu]
アレクシ・ド・トクヴィルの肖像
テオドール・シャセリオー画,1850年カリカチュア 1849年

アレクシ[注釈 1]=シャルル=アンリ・クレレル・ド・トクヴィル(: Alexis-Charles-Henri Clerel, comte de Tocqueville [a.l?k.si?d? t?k.vil][1]1805年7月29日 - 1859年4月16日)は、フランス人政治思想家法律家政治家裁判官からキャリアをスタートさせ、国会議員から外務大臣まで務め、3つの国権(司法行政立法)全てに携わった。19世紀フランスを代表する歴史家・知識人・保守主義者でもある。
プロフィール

パリ出身。生家はノルマンディー地方の貴族で軍人・大地主という由緒ある家柄だったものの、フランス革命の際に親戚が多数処刑されたことから、リベラル思想について研究を行っていた。その後ジャクソン大統領時代のアメリカに渡り、諸地方を見聞しては自由・平等を追求する新たな価値観をもとに生きる人々の様子を克明に記述した(後の『アメリカのデモクラシー』)。

30歳の時、家族の反対を押し切り、英国人でフランスに移民した平民階級の3歳年上の女性メアリー・モトレーと結婚。1848年二月革命の際には革命政府の議員となり、更に翌年にはバロー内閣の外相として対外問題の解決に尽力した。彼の政治的手腕はなかなか鮮やかなものであったが、1851年、ルイ=ナポレオン(後のナポレオン3世)による政治クーデターに巻き込まれて逮捕され、政界を退くことになる。その後は著述及び研究に没頭する日々を送り、二月革命期を描いた『回想録』と『旧体制と大革命』を残し、1859年肺結核により、母国フランスで54歳の生涯を終えた。
年表

(富永 2010) を参考にして作成。

1805年7月29日、パリに誕生。実家はノルマンディーの貴族。

1826年6月、パリ大学で法学学士号を得る。

1827年4月、ヴェルサイユ裁判所の判事修習生となる。この時ギュスターヴ・ド・ボーモン(英語版)と知り合う

1829?1830年、フランソワ・ギゾーの歴史講義で多大な影響を受ける。

1831年4月、ボーモンと共にアメリカを旅行(32年2月迄)。

1832年5月、ヴェルサイユ裁判所陪席判事を辞職。

1833年、ボーモンと共に『合衆国における監獄制度とそのフランスへの適用について』を出版、アカデミー・フランセーズのモンティオン賞受賞

1835年1月、『アメリカのデモクラシー』第一巻出版。

1835年10月、メアリー・モトレーと結婚。

1838年1月、道徳・政治科学アカデミー会員となる。

1839年3月、バローニュ選出の下院議員となる。

1840年4月、『アメリカのデモクラシー』第二巻出版。

1841年12月、アカデミー・フランセーズ会員に選出される。

1849年6?9月、オディロン・バロー(英語版)内閣の外務大臣となる。

1851年12月、クーデターにより身柄を拘束され、以後政治の世界から身を引く。

1856年6月、『旧体制と大革命』出版。

1859年4月26日、カンヌにて死去、5月に埋葬。

1893年、『回想録』出版。

思想・哲学

トクヴィルが19世紀初頭に当時新興の民主主義国家であったアメリカ合衆国を旅して著した『アメリカのデモクラシー(アメリカの民主政治)』(De la democratie en Amerique)は近代民主主義思想の古典であり、今もなおアメリカの歴史及び民主主義の歴史を学ぶ際には欠かせない教科書の一つとなっている。日本では福澤諭吉が『分権論』の中で小幡篤次郎が翻訳した文章を引用している[注釈 2]

トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の『第1巻』の中で、当時のアメリカは近代社会の最先端を突き進んでいると見なし、新時代の先駆的役割を担うことになるであろうと述べている。だが『第2巻』では、その先には経済と世論の腐敗した混乱の時代が待ち受けているとも予言している。さらに民主政治とは「多数派(の世論)による専制政治」だと断じ[3]、その多数派世論を構築するのは新聞、今で言うところのマスコミではないかと考えた。現代のメディアの台頭と民主主義政治との密接な関わり合いをいち早く予想していたのである。彼は大衆世論の腐敗・混乱に伴う社会の混乱を解決するには宗教者や学識者、長老政治家などいわゆる「知識人」の存在が重要であると考えており、民主政治は大衆の教養水準や生活水準に大きく左右されることを改めて述べている。
名言

「道徳の支配なくして自由の支配を打ち立てることは出来ない。信仰なくして道徳に根を張らすことは出来ない」(『アメリカのデモクラシー』序文)

(…)je comprends que ceux-la vont se hater d’appeler la religion a leur aide, car ils doivent savoir qu’on ne peut etablir le regne de la liberte sans celui des m?urs, ni fonder les m?urs sans les croyances(…)("De la democratie en Amerique", Edition 1848, Introduction)。


誤って帰せられたもの

「民主主義においては、人々は自分達にふさわしい政府を持つ」、"In every democracy, the people get the government they deserve."

正しい出典は
ジョゼフ・ド・メーストルの「Toute nation a le gouvernement qu'elle merite.」(Correspondance diplomatique de Joseph de Maistre, 1811-1817. Recueillie et publiee par Albert Blanc [1])。この言葉は"Every country has the government it deserves"や"In a democracy people get the leaders they deserve."など複数の英訳がある。

TVドラマ 24 -TWENTY FOUR- 「リデンプション」 の劇中、アメリカ初の女性大統領、アリソン・テイラーの大統領就任式演説において引用されている。



著作
De la democratie en Amerique, 1835, 1840


デ・トヲクヴィル 著、小幡篤次郎 訳『上木自由之論』小幡篤次郎、1873年11月。doi:10.11501/783212。NDLJP:783212。 第1巻・第2部第3章「合衆國ニテ印書ノ自由アル事」を翻訳

小幡篤次郎 著、同・編集委員会 編『小幡篤次郎著作集』 第2巻、福澤諭吉協会、2023年3月。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-7664-2876-6。「上木自由之論」を収録。 


トークヴィル 著、肥塚龍 訳『自由原論』 第1-3巻、有隣堂、1882年。NDLJP:783176。 

トークヴィル 著、肥塚龍 訳『自由原論』 第4-5巻、有隣堂、1882年。NDLJP:783177。 

トークヴィル 著、肥塚龍 訳『自由原論』 第6-8巻、有隣堂、1882年。NDLJP:783178。 薔薇樓、有隣堂など7書店による共同出版[4]、ヘンリー・リーヴ(英語版)(Henry Reeve)による英訳版から重訳

ド・トックヴィル 著、井伊玄太郎 訳『米国の民主政治』研進社、1948年。NDLJP:2978146。 

トクヴィル 著、井伊玄太郎 訳『アメリカの民主政治』 上・下(旧版)、講談社講談社文庫〉、1972年9月15日。第1巻の完訳で下記新版では上・中。 


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:48 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef