トゥーロン港自沈
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2023年12月)

トゥーロン港自沈 は、1942年11月27日にフランスのトゥーロン軍港で起きたフランス海軍艦艇の一斉自沈である。着底した戦艦ストラスブール(左端)と炎上する重巡コルベール、アルジェリー、軽巡マルセイエーズ

この時期「フランス」「フランス軍」がどの組織のことを指すのかは、政府の正当性とも絡む難しい問題ではあるが、本稿では自由フランスがほとんど出てこないため、特別な断りがない限りフィリップ・ペタンを首班とするヴィシー政権とその軍隊のことを指すものとする。
概要

第二次世界大戦中、フランスでは1940年6月の対独降伏以後ヴィシー政府が名目上正当、実質的にはナチス・ドイツ傀儡政権として存在していたが、1942年11月、連合軍が北アフリカに上陸すると現地のフランス軍はほとんど抵抗せず降伏した。これをヴィシー政府の裏切り、連合国側への寝返りと解釈したナチス・ドイツは対抗措置としてヴィシー政府管理下のフランス全土の占領を実行。その一環として南仏トゥーロン軍港在泊のフランス海軍艦隊を接収しようとしたものである。

これに対し、接収を予期していたフランス海軍は抗議と不服従の意を示すため、一部の例外を除き脱出できない艦艇を港内で全て自沈させる措置を取って対抗。岸壁まで迫ったドイツ軍の眼前で、約3時間のうちに戦艦3隻、巡洋艦7隻、駆逐艦32隻、潜水艦16隻、水上機母艦1隻、小艦艇18隻が自沈した。

脱出に成功、または無傷で接収された艦艇はほとんどなく、この点でドイツ軍の意図は阻止された一方、ヴィシー政府もその海軍力をほぼ喪失する結果になった。
詳細
フランスの降伏

(1940年5月10日 ドイツ軍の攻撃)

(1940年6月14日 パリ陥落

(1940年6月22日 ドイツとの休戦協定成立)も参照

1940年6月21日、フランス共和国電撃戦の混乱から立ち直れないままナチス・ドイツに降伏した。

6月22日、新たに成立したペタン元帥率いるヴィシー政府はドイツとの間に休戦協定を締結した。この協定の中で要点の一つに挙がったのが、この時点でほぼ無傷で残っていたフランス海軍の今後の処遇であった。協定第8条ではフランスの特定の港(第2条で大西洋沿岸はドイツ占領下になると定められたため、場所は事実上北アフリカか、地中海のトゥーロンに限られる)へ集められ武装解除されると定められていたが、この艦隊がその後どうなるかがこの時点では不明確なままだった。

フランス海軍は司令官フランソワ・ダルラン提督の決して軍艦をドイツには引き渡さないとの決意の下、未成艦も含め動ける艦を全てイギリスと北アフリカに脱出させていた。パリ開城2日前の6月12日、英仏統合会議においても、もしドイツがフランス艦隊を捕獲しようとした場合は自沈することを確認していた。ヴィシー政府もこの認識を引き継いではいたが、一方で今やドイツとイギリス、双方がフランス艦隊の接収を目論んでいるという現状も認識していた。

この時点でフランスは戦争から脱落していた。確かにパリ陥落の翌日、シャルル・ド・ゴールがロンドンからラジオで徹底抗戦を訴えてはいたが、フランスの世論は第一次世界大戦のトラウマから厭戦に傾いていた。20数年前の悪夢、悲惨な塹壕戦と膨大な犠牲の再来を回避できるなら、たとえ屈辱的な条件の下であろうと人々は停戦を望んだのだ。ヴィシー政府を率いるヴェルダンの英雄ペタンにとってもそれは一緒だった。この時点でペタンが目標としたのはドイツからの対英参戦要求の断固拒否であり、次にドイツによるフランス占領の内容を少しでも自国に有利なものにすることだった。ドイツの思惑が明白なこの状況下では、艦隊はその政治交渉で彼が使える強力なカードだった。そしてペタンは休戦協定においてフランスの局外中立、非占領地域におけるヴィシー政府の主権を、その艦隊をイギリスへ引き渡さないという確約の対価としてドイツから確保することに成功するのである。

一方、いまや英本土も戦場となりかねない状況の中で、イギリスはフランス艦隊が無傷でドイツ軍の手に落ちるリスクを放置してはおかなかった。

(1940年7月3日 メルセルケビール海戦

(1940年9月23日 ダカール沖海戦

7月3日、イギリスはカタパルト作戦を発動し、ポーツマス、プリマス、そしてアレクサンドリアに脱出していたフランス海軍の艦艇を接収した。さらにアルジェリアのメルセルケビールに艦隊を派遣し、在泊艦隊に「味方に加わる」「降伏して接収される」「武装解除して無力化される」「自沈する」または「撃沈される」かのどれかを選ぶよう迫った。この戦いの結果フランス世論は反英に傾き、ヴィシー政府はイギリスとの国交を断絶。一時は宣戦布告すら検討される状況になった。

9月23日、イギリス軍は西アフリカの要港ダカールを占領しようとした。しかし同地のフランス軍はもはやイギリス軍を味方とは見なさず激しく抵抗し、攻撃を撃退した。

ヒトラーは予想以上のフランス軍の健闘に態度を軟化させ、海軍の処遇についても条件を緩和し、一部艦艇の武装解除のみに留めて艦隊の存続を許した。しかし一方で、北アフリカのフランス植民地が連合国軍の手に落ちるリスクを無視できなくなったことも今や明らかだった。
アッティラ作戦とアントン作戦

1940年12月10日、ヒトラーはもし今後北アフリカのフランス植民地が占領されるか離反した際に、速やかに地中海沿岸の防衛体制を固めるため、ヴィシー政府管理地域を含めフランス全土を占領下に置くアッティラ作戦の検討を命令した。作戦発動の際にはトゥーロンに集められているヴィシー政府の艦隊が北アフリカへ脱出するのも何らかの方法で阻止する必要があると認識されたが、この時点のドイツ軍にはそれを可能にする海軍力も空軍力もなく、作戦自体が1941年2月に無期限延期となった。しかし1941年12月、アメリカの参戦により連合国軍の北アフリカ侵攻の脅威が増したことでヒトラーは作戦の再検討を指令。1942年5月29日、より内容を詰めたアントン作戦が策定された。同作戦ではドイツ軍とイタリア軍が協力してフランスの地中海沿岸部を占領、併せてヴィシーも支配下に置いて首班ペタン以下のフランス政府を無力化することが定められていた。

1942年8月10日、アントン作戦の準備は完了。北アフリカの戦局に変化があり次第、5日で作戦開始が可能な状況になっていた。
トーチ作戦とダルランの降伏

(1940年?43年 北アフリカの戦い

(1942年11月8日 トーチ作戦)も参照

1942年11月8日、北アフリカのカサブランカアルジェオランに連合国軍が上陸した。オランとカサブランカでは在地フランス軍との間に戦闘が発生したが、アルジェにたまたまフランス軍総司令官兼海軍大臣にしてペタンの後継候補と目されるダルラン提督が居合わせたこともあって、10日までに現地での停戦協定が発効した。ところが事態はそれだけに留まらなかった。ダルラン提督は北アフリカのフランス軍が連合国軍に加わることに同意し、トゥーロンのド・ラボルド大将に向けて命令を発したのである。

「直ちに全艦隊を率いて、北アフリカの英・米軍占領の港へ急行せよ。途中、英国艦隊の一部はフランス艦隊を護衛する予定である。至急、出港せよ」

しかし、艦隊は従わなかった。この状況では相手がドイツではないだけで、敵の軍門に降ることに変わりはなかった。加えて艦隊はドイツから妨害工作として燃料・人員の充足率を低く抑えられていたので、脱出も難しくなっていた。どちらの「敵」にも軍艦を渡さないために取れる方策は、限られていた。

一方、ヒトラーは北アフリカのフランス軍降伏の報を受け、アントン作戦の発動を命令した。作戦は11日に開始され、ブラスコヴィッツ上級大将指揮下のドイツ第一軍(第7戦車師団、第327歩兵師団)が大西洋沿岸をスペイン国境まで南下、同時にフェルバー大将指揮下の軍支隊"フェルバー"(第10戦車師団、第161歩兵連隊)はヴィシーを急襲した。またイタリア第四軍が11日にコート・ダジュールを、13日にはコルシカ島を占領した。しかし、この時点でなおドイツ、イタリア両軍にはフランス艦隊の脱出を阻止する用意ができていなかった。このため現地のドイツ軍には艦隊を刺激しないよう、マルセイユとトゥーロンへの進軍を控える命令が出されていた。
リラ作戦

11月11日のアントン作戦発動当初、ヒトラーはトゥーロンのマルキ提督にトゥーロンを占領するつもりはないことを伝えていた。しかし16日、ドイツ海軍最高司令部より航空機による機雷投下以外に現実的なトゥーロン港封鎖の方法がないこと、そして翌17日に国防軍最高会議でトゥーロンを放置した場合、同地が連合軍の南フランス上陸の際の橋頭堡になる危険性が指摘されると態度を変え、19日に同港を奇襲しフランス艦隊を接収または無力化するリラ作戦の実施準備を命令した。

だがこの日、ドイツ海軍最高司令部が総統大本営に提出した報告書には「トゥーロンがドイツ軍に占領されて脱出が不可能な場合は、フランス艦船は自沈せよとの命令が用意されている」旨の情報が記載されていた。もはや一刻の猶予も無かったが、南仏のドイツ軍部隊は既にアントン作戦に従事しており、新作戦参加のための移動と集結にしばしの時間が必要だった。

11月24日、ドイツ軍指揮官は27日0400時を作戦開始とする発起命令を受領した。兵力16000名、戦車200両。作戦計画概要は以下の通りだった。

戦闘団A 第10戦車師団の一部(約3000名):砲台を占領。その後は同行する重砲兵部隊と共に可能な限り艦隊の脱出を阻止する

戦闘団B 第7戦車師団の一部、海軍分遣隊"グムプリヒ"(約4250名):港湾兵舎や軍艦を奇襲により接収。最重要目標は戦艦「ストラスブール」と付近の重巡洋艦。艦隊司令官や艦長を陸上において拘束し、その後海軍分遣隊が艦隊を接収する


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