トゥーロフ
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トゥーラウ
Тура?
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯52度04分09秒 東経27度44分10秒 / 北緯52.06917度 東経27.73611度 / 52.06917; 27.73611
歴史
建設980年
市2004年
行政
 ベラルーシ
  ホメリ州
 地区ジトカヴィチ地区
 市トゥーラウ
人口
人口(2016年現在)
  市域2795[1]
その他
等時帯FET (UTC+3)
郵便番号247980
市外局番+375 2353
位置図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}トゥーラウ (ベラルーシ)

トゥーラウ(ベラルーシ語: Тура?)は、ベラルーシホメリ州ジトカヴィーチ地区(bex)の市である。ベラルーシで最も古い都市の一つであり、12世紀13世紀にはトゥーロフ公国の首都だった。歴史的地域区分としてはパレーッシェ(ポリーシャ・ポレシエ)[2] に含まれる。なお、歴史学的文献においてはトゥーロフ、トゥロフ等とも表記されている。

(留意事項)12 - 13世紀のトゥーラウを首都としていた公国は、2013年時点の日本語書籍では多く「トゥーロフ公国」と表記されているために、本頁では「トゥーロフ公国」、またその君主を「トゥーロフ公」と表記している。
地理

プリピャチ川から南東に25km、鉄道ではホメリ市から258kmの位置にある。
歴史
キエフ大公国時代11世紀の『トゥーラウ福音経』12世紀の教会跡

トゥーラウはドレゴヴィチ族の政治・経済・文化の中心地であった。都市はプリピャチ川へ流入するヤズディ川とストルメニ川の合流地点に造られた。プリピャチ川はドニエプル川、そして黒海へとつながっており、その一連の河川のつながりは、ヴァリャーグからギリシアへの道の一部として、コンスタンティノープルとの交易に利用されていた。『原初年代記』の中に都市の名が初めて言及されるのは980年のことであり、「トゥーラウではトゥルィ(Тур)という者が権力をもっており、都市の名は彼の名による」という主旨の記述が見られる[3]

1005年、トゥーラウにギリシャ正教の管区が置かれた。11世紀には、当地出身の神学者・哲学者のキルィラ・トゥラウスキ によって、ベラルーシで最も古い書籍である『トゥーロフ福音書(be)』が書かれた。12世紀には、トゥーロフ公国には2つの修道院と85の教会があった。

1158年、ルーシ諸公の抗争(ru)の最中、トゥーラウとピンスクは10週間にわたって包囲された。これはルーシの諸公の戦いにおいて、もっとも長期的な包囲戦であった。また、1230年ごろにはトゥーラウに地震が起き、都市が損害を被っていたことが、1961年の調査で解明している。1246年末には、トゥーラウも含む南部ベラルーシでモンゴル帝国軍との戦いが行われた。

キエフルーシ時代、トゥーラウは上記の交易ルートによって重要な交易中心地であり、トゥーロフ公の位にはリューリク朝出身者が就いていた。また、戦略上の重要拠点でもあり、あらゆる産業が発展した。なお、1180年代にはトゥーロフ公国からピンスク公国が分離・独立している。
リトアニア大公国時代

1320年から1330年ごろ、トゥーロフ・ピンスク公国リトアニア大公国に編入された。1430年にはシュヴィトリガイラが都市の支配者となり、15世紀末にはグリンスク公ミハイル(bex)がトゥーラウを支配した。1502年タタール人によって街が破壊されると、ミハイルはモスクワ大公国へ逃亡したため、トゥーラウは復旧に従事したコンスタンティ・オストログスキ家のものとなった。オストログスキ家はおよそ1世紀の間トゥーラウを管理していた。

1648年ボグダン・フメリニツキーの指揮の下、コサック軍がトゥーラウを占領した。またその後のリトアニア大公国軍との争奪戦、さらにモスクワ大公国との戦争を通して[注釈 1]、街は何度も破壊された。1648年には401の屋敷があったのに対し、1667年には111を数えるのみとなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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