トゥーラウ
Тура?
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯52度04分09秒 東経27度44分10秒 / 北緯52.06917度 東経27.73611度 / 52.06917; 27.73611
トゥーラウ(ベラルーシ語: Тура?)は、ベラルーシのホメリ州ジトカヴィーチ地区(bex)の市である。ベラルーシで最も古い都市の一つであり、12世紀・13世紀にはトゥーロフ公国の首都だった。歴史的地域区分としてはパレーッシェ(ポリーシャ・ポレシエ)[2] に含まれる。なお、歴史学的文献においてはトゥーロフ、トゥロフ等とも表記されている。
(留意事項)12 - 13世紀のトゥーラウを首都としていた公国は、2013年時点の日本語書籍では多く「トゥーロフ公国」と表記されているために、本頁では「トゥーロフ公国」、またその君主を「トゥーロフ公」と表記している。 プリピャチ川から南東に25km、鉄道ではホメリ市から258kmの位置にある。 トゥーラウはドレゴヴィチ族の政治・経済・文化の中心地であった。都市はプリピャチ川へ流入するヤズディ川
地理
歴史
キエフ大公国時代11世紀の『トゥーラウ福音経』12世紀の教会跡
1005年、トゥーラウにギリシャ正教の管区が置かれた。11世紀には、当地出身の神学者・哲学者のキルィラ・トゥラウスキ によって、ベラルーシで最も古い書籍である『トゥーロフ福音書(be)』が書かれた。12世紀には、トゥーロフ公国には2つの修道院と85の教会があった。
1158年、ルーシ諸公の抗争(ru)の最中、トゥーラウとピンスクは10週間にわたって包囲された。これはルーシの諸公の戦いにおいて、もっとも長期的な包囲戦であった。また、1230年ごろにはトゥーラウに地震が起き、都市が損害を被っていたことが、1961年の調査で解明している。1246年末には、トゥーラウも含む南部ベラルーシでモンゴル帝国軍との戦いが行われた。
キエフルーシ時代、トゥーラウは上記の交易ルートによって重要な交易中心地であり、トゥーロフ公の位にはリューリク朝出身者が就いていた。また、戦略上の重要拠点でもあり、あらゆる産業が発展した。なお、1180年代にはトゥーロフ公国からピンスク公国が分離・独立している。 1320年から1330年ごろ、トゥーロフ・ピンスク公国はリトアニア大公国に編入された。1430年にはシュヴィトリガイラが都市の支配者となり、15世紀末にはグリンスク公ミハイル(bex)
リトアニア大公国時代
1648年、ボグダン・フメリニツキーの指揮の下、コサック軍がトゥーラウを占領した。またその後のリトアニア大公国軍との争奪戦、さらにモスクワ大公国との戦争を通して[注釈 1]、街は何度も破壊された。1648年には401の屋敷があったのに対し、1667年には111を数えるのみとなった。