トゥールのマルティヌス
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トゥールの聖マルティヌス
物乞いにマントを割いて与えるマルティヌス
生誕316年
ローマ帝国
パンノニア
サバリア
死没397年/400年
カンド
崇敬する教派カトリック教会
正教会
東方諸教会
聖公会
ルーテル教会
記念日11月11日
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エル・グレコ聖マルティヌスと乞食』(1597-1599年)、 ナショナル・ギャラリー (ワシントン)

トゥールのマルティヌス(ラテン語:Sanctus Martinus Turonensis、またマルタン、マルチノとも、316年頃 - 397年/400年)は、キリスト教聖人である。殉教をせずに列聖された初めての人物で[1][2] ヨーロッパ初の聖人でもある[3]日本のカトリック教会では聖マルチノ(ツール)司教[2] と表記される。
来歴

316年ごろ、ローマ帝国パンノニア州(現ハンガリー)サバリア(ラテン語: Savaria, Sabaria, ギリシア語: Σαουαρ?α、ソンバトヘイ)に生まれる。397年(一説には400年)にトゥーレーヌカンドで没。ローマ帝国軍の将校であった父の転任で、子供の頃パヴィーアへ移住し、のちにローマ軍に入隊した。所属する連隊が、しばらくしてガリアアミアンに派遣された時、「マントの伝説」が起こる。
ある非常に寒い日、アミアンの城門で、マルティヌスは半裸で震えている物乞いを見た。彼を気の毒に思ったマルティヌスは、マントを2つに引き裂いて、半分を物乞いに与えた。この物乞いはイエス・キリストであったといわれ[3]、これが受洗のきっかけとなり、その後軍を除隊した。マルティヌスが持っていたほうの半分は、「聖マルティヌスのマント」として、フランク王国の歴代国王の礼拝堂に保管された。

ちなみに、フランクの王朝カペー朝」は、マントを意味する「cape」にちなんでいる。礼拝堂(英 chapel、仏chapelle) も、もともとはマントを保管した場所という意味である[4]。除隊すると、マルティヌスは、聖ヒラリウスの弟子となるためにポワティエに向かうも、その前に、両親のいるロンバルディアに行こうとした。しかしアリウス派の信奉者が多く、カトリックを敵視していたため、ガリアへ戻ろうとしたが、アリウス派の勢力により聖ヒラリウスが追放されたことを知り、ティレニア湾に浮かぶガリナリア島(現アルベンガ島)に逃れた。
その後の勅令により、聖ヒラリウスがガリアに戻ったのを知ったマルティヌスは、ポワティエに急ぎ、361年、ポワティエから少し離れた地域(現リグージェ)を教化する許可を得て、多くの修道士が彼の周りに集まった。
これが、西方教会初の修道院、リグージェ修道院である[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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