トゥールのグレゴリウス
トゥールの聖グレゴリウス、ジャン・マルセランによる19世紀の彫像、ルーヴル
トゥール司教
生誕538年頃11月30日
オーヴェルニュ、ガリア[1]
死没
593年11月17日(593-11-17) or 594年[2]
トゥール、ガリア
崇敬する教派ローマ・カトリック教会、カルケドン派正教会
記念日11月17日
テンプレートを表示
トゥールのグレゴリウス(羅: Gregorius Turonensis、538年頃11月30日 - 594年11月17日)は、ガロ・ローマ人の歴史家、聖職者、メロヴィング朝治下アウストラシアのトゥール司教。ガリア聖職者集団の主導的立場にあった。生まれたときにゲオルギウス・フロレンティウス(羅:Georgius Florentius)と名付けられたが、後に母方の曽祖父に敬意を表してグレゴリウスの名が加えられた[2]。後期の俗ラテン語で著述したが、自身の著作が多くの聴衆に届くようにという入念な策略であったとされる[3]。著作は後代の年代記作家により付けられた『フランク史』(羅:Historia Francorum)の名で知られる『歴史十巻』(羅:Decem Libri Historiarum)が有名で、また著書「聖人伝」もメロヴィング朝期ガリアの生活や信仰の貴重な史料である。 グレゴリウスはガリア中部のオーヴェルニュ地方クレルモンに、ガロ・ローマ社会の上流階級のフロレンティウスの息子として生まれた。父は、妻アルメンタリア2世がリヨン司教ニケティウス
生涯
トゥールでは、グレゴリウスはあらゆることを聞いたり、メロヴィング文化の影響下に置かれたすべての人に会ってもよい立場にはなかった。トゥールはロワール川の公水路上に位置していた。トゥールからは5本のローマ街道が発しており、トゥールはスペインを向こうに置き、アクィタニアとフランク人の北方とを結ぶ幹線道路上に位置していた。北方のフランク人の影響と南方のガロ・ローマの影響は、主にトゥールにおいて接触していたのである(地図を参照)。聖マルティヌスの民衆的な信仰の中心地として、トゥールは巡礼地、病院、政治的な避難場所となり、暴力と混乱の時期にはメロヴィング朝の重要な政治的指導者がトゥールに逃れてきた。
グレゴリウスは4人のフランク王、シギベルト1世
、キルペリク1世、グントラム、そしてキルデベルト2世らとの個人的な関係に苦労したが、彼は当時のフランク人の指導者のほとんどと個人的な知り合いだった。