トゥーラーン
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「トゥーラン」はこの項目へ転送されています。フォルクスワーゲンが販売するミニバンについては「フォルクスワーゲン・トゥーラン」を、その他の用法については「トゥラン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ウラル・アルタイ語族に関するイデオロギーについては「ツラニズム」をご覧ください。
ガージャール朝時代にアドルフ・シュティーラー(英語版)により描かれたイーラーンとトゥーラーンの地図

トゥーラーン (ラテン文字: T?r?n, ペルシア語: ?????‎) またはツランは、ペルシア語中央アジア付近の地域のこと[1]
概要

トゥーラーンとはイラン神話の登場人物トゥール(英語版)に由来し、トゥールの土地という意味である。またトゥーラーン人はアムダリヤ川以北に住む民族で、イラン人と対比される民族である。トゥーラーン人はゾロアスター教の根本教典『アヴェスター』に登場するので、紀元前15世紀頃には居たようである。古代のトゥーラーン人はイラン系民族だったが[2][3][4]、6世紀頃から7世紀ごろ、アムダリヤ川の北に居るテュルク系民族を指す様になった。11世紀に書かれた『シャー・ナーメ』でもイラン神話を踏襲しつつも、文化的にはトゥールはテュルク系民族としており[5]、中央アジアで古代のイラン人とつながりのないテュルク化が徐々に進んだという説もある[6][7]。20世紀の西洋ではトゥーラーンは中央アジアを指すようになり、アルタイ諸語及びウラル語族(現在は支持されていないが、当時はウラル・アルタイ語族と呼んだ)系民族を表すイデオロギー的な用語として使用された。トゥーラーンは人名としても使用され、中東地域で一般的に見られる姓である。ジャコモ・プッチーニのオペラ「トゥーランドット」もこれに由来する。
用語
古代文学
アヴェスター

トゥーラーン人に関し現存する最古の記録は約2,500年前(言語学者推定)に構成されたアヴェスターのフラワシのヤシュト(英語版)に見られる[8]。「アヴェスター」には様々な部族の名前が記されており、彼らは互いに近い地域に暮らしていた。Gherardo Gnoli教授によれば、ヤシュト人、アーリア人、トゥーラーン人、Sairimas、Sainus、Dahisは繰り返し現れるイラン系民族である[9]アヴェスターの賛美歌によれば、形容詞形であるトゥールヤー(T?rya)はFra?rasyan(シャー・ナーメではアフラースィヤーブと表記)のようなゾロアスター教の様々な敵と関連性がある。トゥールヤーという単語はガーサース(英語版)には1回しか現れないが、アヴェスターの後半部分には20回も登場する。

トゥーラーン人はアヴェスターにおいて、SairimasやSainus、Dahisよりもより重要な役割を担っている。ゾロアスター自身はアーリア人に広く受け入れられたが、彼は周辺地域の他の部族にも説法をして回っていた[9][10]

メアリー・ボイスによれば、フラワシのヤシュト(143-144節)では、アーリア人(彼ら自身のことをアヴェスター人と呼んだ)の間だけでなくトゥーラーン人、Sairimas、Sainus、Dahisの間でも、正しい男女のフラワシが褒め称えられている。また、彼らの個人名にはイラン系民族の特徴が見られる[11]。トゥーラーン人とAiryaの間の敵対はフラワシのヤシュト(vv. 37-8)でも示されており、そこではフラワシはトゥーラーン人の集団に似た[12]Danusに対する戦争の援助を提供していると言われている。従って、アヴェスターでは、ゾロアスター教を信仰するようになったトゥーラーン人もいれば、拒否した者もいた。

ゾロアスター教の古代の拠点と同様に、トゥーラーンの正確な地理や場所は不明である[13]。アヴェスター後の伝統においては、トゥーラーン人はアムダリヤ川以北の地域に住んでいたと考えられており、アムダリヤ川はトゥーラーン人とイラン人を分け隔てていた。イラン人との絶え間ない抗争に見られる彼らの存在は、独立した国家や祖国の誇り、防衛に血を流す覚悟としてイラン人の定義を定める役割も担った[14]。アヴェスターやシャー・ナーメに見られるトゥーラーン人の一般的な名前にはアフラースィヤーブ[15]やアグラエスラ(Aghraethra)[16]、ビデラフシュ(Biderafsh)[17]、アルジャスパ(Arjaspa)[18]、ナムフワスト(Namkhwast)[19]が含まれる。アヴェスターに現れるものを含めたイラン系民族の名前はアヴェスターに現れる個人名の語源に関した概説書「Iranisches Personennamenbuch, I: Die altiranischen Namen. Faszikel l, Die Avestischen Namen」の中で、Mayrhofer教授により研究されている[20]
サーサーン朝後期と初期イスラム帝国時代

歴史における、遊牧系民族による北東部の境界への継続的な侵入によりトゥーラーン人の記憶が生き続けることとなった[14]。6世紀後、他の部族により西へと追いやられたテュルク系民族はイラン系民族と近接して暮らすようになり、トゥーラーン人と認識された[14][21]。テュルク系民族をトゥーラーン人と識別するようになったのは7世紀前半頃とされている。テュルク系民族は6世紀にイラン系民族と初めて接触した[22]

C.E. Boseworthは以下のように述べている[23]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}イスラム時代初期、ペルシア人はホラーサーン北東部と、フェルドウスィーシャー・ナーメではフェリドゥーンの息子トゥールに割り当てられた土地とみなされていた、トゥーラーンの地域にあるアムダリヤ川より手前にあるすべての土地を自分たちの土地と考える傾向にあった。トゥーラーンの住民にはテュルク系民族が含まれていた。彼らはイスラム帝国建設以降の4世紀の間は本質的にヤクサルテス川を超えた地域で遊牧生活を送っていた人々であり、彼らの領土をさらに超えた地域には中国人が住んでいた (Kowalski, Minorskyの「Turan」を参照)。その後トゥーラーンは民族的、地理的用語として使用されるようになったが、この用語には常に曖昧さや矛盾が含まれていた。これは、イスラム帝国時代を通してトゥーラーンの土地はアムダリヤ川を超えるとすぐの地域であり、同時にその下流域はソグディアナ人やホラズム人のような、テュルク系民族ではなくイラン系民族である人々の故郷であったという事実から生じている。

テュルクという単語とトゥーラーン人という単語はイスラム帝国時代にほぼ同義語として使用されるようになった。シャー・ナーメ(王の書)では2つの用語を同等なものとして使用している。Tabariやハキーム・イーラーンシャーを含む他の作家もこれに続いている。はっきりとした例外としてアラブの歴史家アブル=ハサン・アリー・イブン・マスーディー(Abl-Hasan Ali ibn Masudi)がおり、彼は「アフラースィヤーブはテュルクの土地において誕生しており、歴史家や非歴史家が彼をテュルク人であるとみなす誤りを犯すのはこれが理由である。」と述べている[24]。10世紀までに、アフラースィヤーブの神話はカラハン朝に取り入れられた[15]


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