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『トゥーランドット』(Turandot)は、フランソワ・ペティ・ド・ラ・クロワ
(Francois Petis de la Croix)が1710年から1712年に出版した『千一日物語』(原題Les Mille et un Jours、『千一夜物語』とは別の作品)の中の「カラフ王子と中国の王女の物語」に登場する姫の名前であり、また、その物語を基にヴェネツィアの劇作家カルロ・ゴッツィが1762年に著した戯曲、および、それらに基づいて作曲された音楽作品である。上記に該当する音楽作品は複数存在するが、本項では、これらのうち最も有名なジャコモ・プッチーニのオペラ『トゥーランドット』について記述する。「トゥーランドット」は、アラビア半島からペルシャにかけて見られる「謎かけ姫物語」と呼ばれる物語の一類型であり、同系の話は古くはニザーミーの叙事詩『ハフト・ペイカル(七王妃物語)』(1197年)にまでさかのぼる。この系統の物語をヨーロッパに紹介したのがペティの千一日物語であり、原典は失われてしまったが同じような筋書きのペルシャ語写本が残されている。
ただし、残されているペルシャ語写本にはトゥーランの国名はあるもののトゥーランドットの人名はなく、フランス人の研究者オバニアク(Robert Aubaniac)は、この「トゥーランドット」という名はペティが出版する際に名づけたのかもしれないとしている。このペティの手になる「カラフ王子と中国の王女の物語」を換骨奪胎して生まれたのがゴッツィ版「トゥーランドット」であり、この作品はさらにシラーによってドイツ語に翻案されている(1801年)。なお、プッチーニのオペラはゴッツィ版が元であり、ウェーバーのオペラはシラー版を元にしているとされている。
このトゥーランドット物語は、オペラだけでも少なくとも12人の作曲家の作品が存在することが確認されているが、今日では以下のものが有名である。
カール・マリア・フォン・ウェーバーが作曲、1809年にドイツ・シュトゥットガルトで初演された劇。中国らしさを出すためにジャン=ジャック・ルソーの『音楽辞典』の巻末譜例から『中国の歌』を引用している。後にこの『中国の歌』の部分がパウル・ヒンデミットにより『ウェーバーの主題による交響的変容』第2楽章の主題として用いられる。
アントニオ・バッジーニが作曲、1867年にイタリア・ミラノで初演されたオペラ『トゥーランダ』Turanda。
フェルッチョ・ブゾーニの作曲になる、1905年に初演された劇音楽、またそこから発展し1917年にスイス・チューリッヒで初演された2幕のオペラ。
ジャコモ・プッチーニが作曲、彼の1924年の没後遺された未完部分にフランコ・アルファーノの補作を経て、1926年にイタリア・ミラノで初演された3幕物のオペラ。
本項では、これらのうち最も有名な4.のプッチーニのオペラ『トゥーランドット』について記述する。
1918年にいわゆる「三部作」Il tritticoを発表して以来、第一次世界大戦後の混乱も影響して新作の途絶えていたプッチーニであったが、1919年の中頃からは新作の題材検討を精力的に行っていた。 はじめ有力な候補だったのが、シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』(The Taming of the Shrew)を下敷きに、ジョヴァッキーノ・フォルツァーノが書いた『スライ』(Sly, ovvero La leggenda del dormiente risvegliato)であった。プッチーニは実際、ロンドン訪問時にトーマス・ビーチャムにエリザベス朝時代の歌曲の収集を依頼したりもしているのだが、結局のところ同作のオペラ化は放棄される(この後『スライ』は舞台劇としてイタリアおよびイギリスで成功を収め、ヴォルフ=フェラーリによってオペラ化、1927年に初演された)。 1919年も年末にさしかかる頃、プッチーニの新作の台本を担当するのはジュゼッペ・アダーミとレナート・シモーニの2人ということで固まってきた。台本作家2人の一方はストーリー展開やキャラクターの性格付けを立案、他方が歌詞文に磨きをかけるという分担は『ラ・ボエーム』でのジャコーザとイルリカのチーム以来、プッチーニの常套手段だった。 劇作家でありジャーナリストのアダーミとは前々作『つばめ』以来の共同関係である。シモーニはカルロ・ゴッツィの研究家としても知られる一方、ジョルダーノの『マダム・サン=ジェーヌ
基本データ
原語曲名:Turandot
原作:カルロ・ゴッツィ
台本:ジュゼッペ・アダーミおよびレナート・シモーニ
演奏時間:約2時間(第1幕35分、第2幕45分、第3幕40分)
初演:1926年4月25日、ミラノ・スカラ座にて、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮による
作曲の経緯ジャコモ・プッチーニ
題材検討の開始
台本作家の決定、トゥーランドットの提案