トゥンク・アブドゥル・ラーマン(Tunku Abdul Rahman Putra Al-Haj ibni Almarhum Sultan Abdul Hamid Shah、1903年2月8日 ? 1990年12月6日)は、「マレーシア独立の父」であり、1947年に結成され1957年に独立したマラヤ連邦の初代首相である。1963年にマラヤ連邦、サバ州、サラワク州、シンガポールが統合してマレーシアとなった際に、初代首相に就任した。 アブドゥル・ラーマンは、第24代クダ王国
生涯
生い立ち
6歳のときに初等教育を受け始め、後に現在アロースターにあるアブドゥル・ハミド大学になっている英語学校に進学した。8歳のときに他の3人の兄弟とともにバンコクに留学している。1915年帰国し、ペナンで勉学を続けた。
1918年、クダ州の奨学金を取得しケンブリッジ大学聖キャサリン校(英語版)に留学していた。1925年学士を取得。クダ州奨学金取得者の中で初めてイギリスに留学した。
帰国後はクダ州の公務員として働いていた。その後、再びイギリスへ留学し法学を修学しようとしたが、第二次世界大戦の勃発により1938年にやむなく帰国している。1947年から再度留学し弁護士の資格を得た。
1949年にイギリスから帰国すると、アロースターにある法律事務所で勤務していたが、その後、クアラルンプールへ異動を依頼している。
この時代は、マラヤ全域でナショナリズムが高揚しており、ダト・オンがUMNOを指導していた。彼はUMNOに参加し、1951年にはUMNO内部の路線対立により、ダト・オンをUMNOから追放し、UMNOの党首に就任した。
マレーシア独立独立記念日のラーマン
1954年、ロンドンにマラヤ独立のための使節団を派遣するが果実は実らなかった。1955年総選挙(マレーシア憲政史上初めての総選挙)において、UMNOは、MCAと連携することで、52議席中51議席をこの3党で独占する圧倒的な勝利を収める。1956年には、インド系住民を代表するMICもこのアライアンスに参加した。
1955年後半には、再度、マラヤ独立のための使節団をイギリスに派遣し、1957年8月31日がマラヤ連邦独立の日と決定した。独立記念日には、クアラルンプールに掲揚されていたイギリス国旗が降ろされ、ラーマンは、自由を叫ぶ群集を率いた。手を挙げるラーマンの写真と彼の感傷的ではあるが彼の群衆の歓声を呼ぶ決意を込めた音声の記録は、マラヤ独立の象徴となった。 ラーマンは、1963年にマレーシアと改編された後も首相としてマレーシア政治をリードした。1959年総選挙・1964年総選挙でもUMNOを中心としたアライアンスは、勝利を収めている。 マレーシア結成は、その人生の最大の成果である。1961年には、シンガポールで講演した際には、サバ、サラワク、シンガポール、ブルネイを含めたマレーシアを提唱している。1963年には、ブルネイを除いた前述の地域によってマレーシアが誕生し、引き続き、マレーシアの舵取りを任せられた。 しかしながら、民族間の対立は、シンガポールのマレーシア参加で明らかになってくる。というのも、シンガポールと半島部マレーシアでは民族構成が大きく異なる。全人口の約6割をマレー人が占めるマレーシアに対して、シンガポールは、人口の大多数を華人系が占めているからである。UMNOとMCAは、1964年総選挙でリー・クアンユー率いる人民行動党(PAP)の動向に神経質になっていた。1964年総選挙では、PAPが議席を1議席しか獲得できなかったものの、その翌年には、シンガポールをマレーシアから追放した(シンガポールの視点から見れば、望んでいなかった独立である)。 ラーマンは、東南アジア諸国との外交に大きな役割を果たし、1967年には、タイ、フィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシアの5国によるASEAN結成を実現させた。 1969年総選挙で、UMNOを中心とするアライアンスは大きく議席数を減らし、その直後勃発した5月13日事件を契機に、ラーマンは、UMNOのと呼ばれる次世代の指導者層に大きく非難を浴びた。マハティール・ビン・モハマドは、ラーマンに対して首相の辞任を突きつける書簡を送っていて、その後、3年間の政治浪人を余儀なくされるが、ラーマンへの支持が大きく損なわれたのは明らかであった。
首相時代