トゥルゴヴィシュテの夜襲
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トゥルゴヴィシュテの夜襲

松明を持ってオスマン軍陣営を襲撃するワラキア軍(テオドール・アマン画)

時1462年6月17日
場所トゥルゴヴィシュテ, ルーマニア[1]
結果

双方が勝利を主張

オスマン軍は撤退

ワラキア軍はメフメト2世殺害に失敗


衝突した勢力
ワラキア侯国(フランス語版) オスマン帝国
指揮官
ヴラド3世ツェペシュ メフメト2世
戦力

30,000人

軽歩兵・義勇兵 22,000人以下
90,000?150,000人
被害者数
5,000人[2]10,000人[3]?15,000[2]

トゥルゴヴィシュテの夜襲(トゥルゴヴィシュテのやしゅう、ルーマニア語: Atacul de noapte de la Targovi?teトルコ語: Tirgovi?te Bask?n?)は、1462年6月17日に、ワラキア侯(英語版)ヴラド3世(ツェペシュ)とオスマン帝国スルタンメフメト2世の軍が衝突した戦い。先立ってメフメト2世はヴラド3世がハンガリー王マーチャーシュ1世と密約を結んでいるのを察知し、軍を派遣してヴラド3世を襲撃させたが、撃退された。そこでメフメト2世は大軍を招集し、ワラキア侯国の征服と併合を目指して親征した。この戦争で両者は度々衝突を繰り返したが、その中でも特に有名なのが、6月17日の夜襲である。ヴラド3世はメフメト2世殺害を目指し、みずからオスマン陣営に突入して大損害を与えた。しかしメフメト2世は難を逃れ、その後ワラキア侯国の首都トゥルゴヴィシュテに侵攻した。そこにはごく僅かな守備兵と大砲数門、そしてかつてヴラド3世がブルガリアに侵攻した際に殺害した23,844人の「トルコ人」の串刺し死体が残されていた。なおこの数は、ヴラド3世自身がマーチャーシュ1世に宛てた書簡で明らかにしているものである。この光景への恐怖と補給難などにより、メフメト2世とオスマン軍は港町ブライラを経由し、この町を焼き払ったうえで海路エディルネへ撤退した。それでもオスマン軍は膨大な捕虜(奴隷)や馬、家畜などを戦利品として持ち帰っており、両陣営が勝利を宣言した。
背景

1453年にコンスタンティノープル征服ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国メフメト2世は、各方面へ次なる拡大の矛先を向けた。東方ではビザンツ帝国の亡命政権の一つトレビゾンド帝国ウズン・ハサン率いる白羊朝が、ともに比較的小国ではあるもののオスマン帝国を脅かしていた。西方ではアルバニアスカンデルベクがオスマン帝国に抵抗を続けており、ボスニア王国もしばしばオスマン帝国へのジズヤを滞納していた。北方ではワラキア侯国ドナウ川左岸(北岸)を支配していた。メフメト2世は、キリスト教勢力が神聖ローマ帝国からドナウ川を下ってオスマン帝国の枢要部を襲う可能性を恐れていた。そのような脅威を除くために、彼はドナウ川両岸に支配を確立したいと目論んでいた。1459年9月26日、ローマ教皇ピウス2世が新たな対オスマン十字軍の招集を宣言し、1460年1月14日にはマントヴァ公会議(英語版)の席上で3年後の十字軍結成を公式に宣言した。しかしこの計画は失敗に終わった。十字軍結成への情熱を見せたのは、以前から教皇が目をかけていたワラキア侯ヴラド3世のみであった[4]。ヨーロッパの君主たちが十字軍に消極的なのを見て、メフメト2世は逆に攻勢に出る決断を下した。1460年後半、メフメト2世は自立していたセルビアの都市スメデレヴォを征服し、1461年にはビザンツ系のモレアス専制公に全領土の譲渡を要求した。間もなく、その首都ミストラスコリントスをはじめとしたモレアスの諸都市は抵抗なしにオスマン帝国に降った[5]

ヴラド3世唯一の同盟相手だった元ハンガリー摂政シラージ・ミハーイ(英語版)も、1460年に軍勢を率いてブルガリアを彷徨っていた際にオスマン軍に捕らえられた。彼の部下たちは拷問の末に殺され、シラージも両断刑に処された[5]。同年後半、メフメト2世はヴラド3世のもとに使者を派遣し、滞納されているジズヤを納めるよう要求した。しかしヴラド3世はこの使者を殺害し、メフメト2世を激怒させた。1460年9月10日にクロンシュタットトランシルヴァニア・ザクセン人に宛てた書簡の中で、ヴラド3世はメフメト2世の侵攻計画について警告するとともに、これに対抗すべく自身を支援するよう要請している[6]。ヴラド3世は毎年1万ドゥカートのジズヤをオスマン帝国に納めるよう義務付けられていたが、1459から滞納していたのである。さらにメフメト2世は、イェニチェリ要員として千人の男児を差し出すよう要求してきた。ヴラド3世に拒絶されたのを受け、オスマン軍がドナウ川を越えて徴用を強行しようとした。しかしヴラド3世はこのオスマン兵たちを捕らえ、串刺しにした[7]

メフメト2世はヴラド3世に、コンスタンティノープルへ来て交渉の座につくよう求めた。しかし1461年11月末、ヴラド3世は返書を送り、ジズヤの支払いもコンスタンティノープルへの出頭も拒否した。ハンガリー王に従うトランシルヴァニア・ザクセン人との戦争で金を使い果たしており、ワラキアを離れてハンガリー王に領土をかすめ取られる危険は冒せないというのがヴラド3世の言い分だった。その代わり、ジズヤは十分な金が貯まれば納めるし、ワラキアの留守を預かるパシャを一人派遣してくれればコンスタンティノープルへも赴くと約束していた[8]。しかしメフメト2世は、ヴラド3世が敵対しているというハンガリー王マーチャーシュ1世が、実は裏でヴラド3世と手を組んでいるという情報をつかんでいた。メフメト2世はニコポリス(英語版)のベイであったハムザ・パシャ(英語版)に、外交交渉の名目でヴラド3世を誘き出して捕らえ、コンスタンティノープルへ連行するよう命じた[9]。しかしヴラド3世はこの計画を知り、逆手に取った。ハムザ・パシャが1000人の騎兵を率いてジュルジュの北の隘路を通りかかったとき、ヴラド3世の手勢がこれを奇襲して包囲し、手砲(英語版)で皆殺しにした。歴史家たちは、ヴラド3世がヨーロッパの十字軍の中で初めて火薬兵器を、それも「恐ろしく芸術的なやり方」で活用した人物の一人であると評している[10]。1462年2月11日にマーチャーシュ1世へ宛てた書簡で、ヴラド3世はかつてワラキア方の要塞があったジュルジュ近くでハムザ・パシャを捕らえた、と告げている。その後ヴラド3世はみずからオスマン兵に変装して、騎兵隊と共にオスマン帝国の要塞に乗り込み、そこの守備隊に門を開放するよう命じた[9]。守備隊が応じたその時、ヴラド3世は騎兵隊を突入させ、要塞を制圧した[9]。その後もヴラド3世は進軍を続け、敵兵やオスマン帝国に通じていると見た住民を殺戮してまわった。まずはワラキア南部を、続いて凍結したドナウ川を渡ってブルガリアを荒らした。ブルガリアでは部隊をいくつかに分け、「2週間で800キロメートル」の範囲を多い、23,000人以上を殺した。上述の2月11日の書簡で、ヴラド3世は以下のように主張している[11]

私はドナウ川が海へ流れ出すオブルチツァとノヴォセロから上はキリアに近いラホヴァに至るまで、ドナウ下流からサモヴィトやギゲンのようなところに至るまで、老若男女の農民を殺した。我らは23,884人のトルコ人を殺したが、この中に家屋ごと焼いたり我が兵が首を落としたトルコ人の数は含んでいない……それゆえ陛下(マーチャーシュ1世)、あなたは私が彼(メフメト2世)との和平を破ったと知らねばならない。

キリスト教徒のブルガリア人は命を助けられ、その多くはワラキアへ移住した[12]


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