トイレ遺構
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トイレ遺構(トイレいこう)もしくは便所遺構(べんじょいこう)とは、発掘調査考古学研究の結果、過去にトイレ(便所)として利用されたことが明らかとなった遺構。今日確認されている世界最古のトイレは、イラクに所在する古代メソポタミア文明アッカド王朝時代のテル・アスマルの遺跡エシュヌンナ)から発見された紀元前2200年頃の水洗式トイレである。日本のトイレ遺構の確認は、1980年昭和55年)に一乗谷朝倉氏遺跡金隠しが発見されたことが始まりである。
概要

トイレ遺構では籌木(ちゅうぎ)として使用された木片、好糞性の昆虫、動物の骨、植物の花粉などが大量に出土する[1]

従来は発掘調査中に肉眼で観察できたものに限られていたが、1992年奈良国立文化財研究所による藤原京跡の発掘調査で土壌を水洗して有機体遺物を採取する浮遊遺物洗浄法(フローテーション)がおこなわれ、籌木のほか、食べられたものの消化されずに排泄された種子花粉や、魚骨、トイレ環境に生息する昆虫、人々の体内に生息していた寄生虫の卵などが見つかって考古学的にトイレとして利用されたことが証明できるようになった。

トイレ遺構からは当時の人々の食生活や病気の罹患状態などを知る大きな手がかりとなっており、生活に関する未知の分野の解明に役立つ遺構として注目されている[1]
古代オリエント文明テル・アスマルの貯蔵庫から見つかった貝殻状の目をもつシュメール人神官(12体あるうちの1つ)

テル・アスマルはイラク東部、バグダードの北東約60kmの位置にあるシュメールの都市エシュヌンナの遺跡である。ここで発掘されたアッカド王朝時代(前2200年頃)の宮殿から、いま我々が知ることのできる世界最古のトイレが発見されている。この宮殿は、トイレと浴室の数が多く、質的にもきわめて充実している。少なくとも6ヶ所のトイレ、5ヶ所の浴室があり、トイレは煉瓦を「コ」の字状の椅子形に積み上げた便器が設けられた腰掛け式の水洗式トイレであった。その廃水は宮殿東壁に沿ってつくられた管に流れ込む仕組みになっている。管は地下に埋められ、アーチ状の覆いが掛けられており、その中は上部に通路があって掃除のために歩けるようになっていた。

宮殿の100年後、前2100年頃の一般住宅からもトイレが発見されている。こちらも煉瓦製便器で、下を水が流れ、排泄物は焼き物でつくられた配水管を通って、下水道からチグリス川の支流ディヤラ川へと流れる「高野山形水洗式トイレ」であった。なお、テル・アスマルのトイレ遺構のようすはトイレ研究史上記念すべき著作である『厠考』(李家正文著)にも写真入りで紹介されている。

シュメールの都市の中でも極めて重要な都市遺跡ウルでもトイレ遺構(年不詳)が見つかっている。テル・アスマルは下水道に直結した水洗トイレであるが、ウル検出のものは毛細管現象を利用した「非直結型トイレ」であった。

テル・エル・アマルナは、中エジプトのナイル川東岸に所在する、エジプト第18王朝末のアメンヘテプ4世の都市遺跡である。テーベから遷都されてからツタンカーメン王による放棄までわずか15年間の首都であった。この頃の新王国エジプトでは、家の前や路上でゴミを廃棄したり用便を済ましたりすることが一般的だったため、王は住居にトイレと炉を設置するよう触れを出した。そこで一般住宅にもトイレが設けられることとなった。前1350年頃の住宅から発見されたトイレは、鍵穴状の切り込みがある石灰岩製の便座が煉瓦の支えの上に載っていた。切り込みの下にはが置かれ、排泄物はこの中に溜められ、肥料として用いられたものと考えられる(壺形汲取式トイレ)。
モヘンジョダロ

モヘンジョダロパキスタンシンド地方にあるインダス文明紀元前20世紀?紀元前17世紀)を代表する都市遺跡である。南北を走る大通りを中心に区画整理された計画都市で、建築には焼煉瓦が用いられている。ここでは腰掛け式のトイレと汚物の沈殿槽が見つかっている。沐浴場や排水溝が整備されている都市遺跡であることから「水洗式トイレ」と推察される。
ミノア文明

ギリシアクレタ島は、小アジア系のクレタ人による海洋文明(ミノア文明紀元前20世紀?紀元前14世紀)の栄えたことで知られ、未解読の線文字Aの存在が有名である。ここでは下水道につながった木製の便座が見つかっている(水洗式便所)。
中国の豚便所

前漢代(紀元前2世紀?)からさかんになり後漢代(?紀元後3世紀)には全国に普及する中国の遺物に「瓦製明器」がある。これは、墓の中に副葬するため、実物の器物の代用としてつくられたミニチュア模型である。この明器のなかに「?」(こん、クニガマエに豕)というブタを飼う畜舎がある。垣のなかではブタが飼われ、垣の壁上に小屋があり、その小屋で人が用を足すと糞は下の放牧場に落ちてブタの餌となる仕組みである。この豚便所は遅くとも前漢代には始まり、中国では近代まで利用されていた。

このしくみは台湾沖縄県方面にも伝わり、沖縄県では「フル」(首里)、「フリマア」(石垣島)、「フアフル」(糸満)などと呼称され、その語源は「風呂」と考えられている。今日では衛生面での不安を考慮され使用禁止となっている。
古代ギリシア

古代ギリシアでは、意外なことにほとんどトイレには気を配らなかった。アテネの古代遺跡からも下水施設は見つかっていないし、当時の記録にも「下水」という記述は一切見えないという。当然、町はきわめて不潔であり、チフスペスト天然痘などの病気がたびたび猛威を振るった。古代ギリシア文明衰亡の遠因の一つに、このトイレの欠如を挙げる人もいるくらいである。個人の住宅にも都市においてもトイレは設置されず、人々が出す汚物はほぼ垂れ流しに近いものであったと推定される。アリストパネスの喜劇作品にも、人々が表に出て用を足す場面が描かれている。また、これらの排泄物はしばしば城壁の外に捨てられた。アリストテレスの著書『アテネ人の国制』には、アテネの市域監督官の役目の一つに「汚物の処理が城壁から一定以上離れた場所で行われているか」の監視があった、と書き残している。
古代ローマ

ポンペイ遺跡(イタリア)は西暦79年ウェスウィウス火山(ヴェスヴィオ火山)の噴火により埋もれてしまったローマ時代の都市として知られる。個人住宅跡では一般的に穴を1個空けただけの便所が台所かその近くにあった。たとえば、所有者の知られる「ケイウスの家」では台所の一画にあり、台所から2階にあがる階段の下がトイレ空間になっていた。下水設備が完備していたのは公衆トイレだけであった。
日本のおもなトイレ遺構
先史時代


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