この項目では、ロシアの地名について説明しています。
地名の由来となった革命期フランスの軍人については「シャルル・ウジェーヌ・ガブリエル・ド・ラ・クロワ・ド・カストリー」をご覧ください。
20世紀フランスの軍人については「クリスティアン・ド・カストリ」をご覧ください。
デ=カストリ
Де-Кастри
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯51度28分00秒 東経140度47分00秒 / 北緯51.46667度 東経140.78333度 / 51.46667; 140.78333
デ=カストリ(ロシア語: Де-Ка?стри)はロシア連邦ハバロフスク地方ウリチ地区にある集落(ポショーロク посёлок)。日本海のチハチョーフ湾(旧デ=カストリ湾)岸に位置する。人口3724人(2002年)。北緯51度28分、東経140度47分。病院と中等学校あり。 デ=カストリという名は所在地であるチハチョーフ湾(залив Чихачёва)の旧名デ=カストリ湾(залив Де-Кастри)に因む。デ=カストリ湾はラ・ペルーズが1787年に発見し、探検隊のパトロンである海軍大臣ド・カストリー伯(Charles Eugene Gabriel de La Croix de Castries)から名づけられた。天然の良港であり軍事的価値も高い。 集落がつくられたのは1853年、アイグン条約が結ばれ、ロシアがこの地を手に入れた5年前であり、アムール川河口以南がロシアの支配下になかった頃だった。しかし、同春にネヴェリスコイとボシュニャーク
歴史
1854年のクリミア戦争でのペトロパヴロフスク=カムチャツキー防衛戦後、カムチャツカへの補給・守備の難しさが浮き彫りとなった。再攻撃に備えカムチャツカの港を移転する事が決まった。1855年春、海軍少将ヴァシーリー・ザヴォイコの指揮でロシアの艦隊と住民たちはまだ流氷の残るアムール川河口へと向かった。解氷を待ってデ=カストリ湾で強力なフランスとイギリスの艦隊から隠れることになったが、発見されてしまった。しかしアムール川へ逃げ込んでなんとか敵の増援の到着をやり過ごすことができた。
1858年にロシアに鉄道計画が持ち上がった際、ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーはソフィースコエ=ナ=アムーレとアレクサンドロフスキー監視所を結ぶ路線を提案した。しかしこの案は採用されず、鉄道路線ははるか南のウラジオストクで太平洋へ延びることになり、ソビエト時代にヴァーニノまで延びた。