デーモン・アルバーン
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デーモン・アルバーン
OBE

基本情報
出生名デーモン・アルバーン
Damon Albarn
生誕 (1968-03-23) 1968年3月23日(56歳)
出身地 イングランド
ロンドンコルチェスター
ジャンルオルタナティヴ・ロックブリットポップエクスペリメンタル・ロックエレクトロニカオルタナティブ・ヒップホップ
職業ミュージシャンシンガー・ソングライター作曲家音楽プロデューサー俳優
担当楽器ヴォーカルキーボードピアノオルガンメロディカシンセサイザーメロトロンギターヴァイオリンベースチェロヴィオラドラムスヴィブラフォンリコーダー
活動期間1988年 -
レーベルフード・レコーズ、SBK、パーロフォンヴァージン・レコードEMIワーナー・ミュージック・グループXLレコーディングス、オネスト・ジョン、ワーナー・ブラザース・レコード
共同作業者ブラーゴリラズザ・グッド,ザ・バッド・アンド・ザ・クイーン、ロケットジュース・アンド・ザ・ムーン、トニー・アレンブライアン・イーノ

デーモン・アルバーン OBE(Damon Albarn OBE、1968年3月23日 - )は、イギリス出身のミュージシャン音楽プロデューサー
概説

イギリスを代表するロックバンドブラーのフロントマンであり、ボーカル、作詞・作曲[1]を担当している。また、キーボードピアノギターベースも演奏する。1990年代中盤にイギリスで沸き起こったブリットポップムーブメントにおいては、その中心人物としてシーンを牽引。ムーブメント収束以後は、それまでのポップなブラーのイメージから脱却した革新的で実験精神旺盛な作品を発表し、アーティスティックな評価を高めている。2000年代以降はブラーでの活動のほかに、数々のバンドやサイドプロジェクトを精力的に立ち上げ、特にヴァーチャルバンドのゴリラズではブラーを上回る世界的な成功を収めるなど、イギリス・ロックシーンの重要人物の一人に数えられている。
来歴・人物
デビュー前

父・キース、母・ヘイゼル[2]の下、東ロンドン・レイトンストーンのホワイトチャペル病院で生まれる。芸術家の両親の下、自由でボヘミアンな気風の家庭で育ち、幼少の頃から音楽やアートに親しむ。9歳の時、二か月のトルコ旅行を経験。その後父親が、ノース・エセックス・オブ・アートの学長職を得たのを期にエセックスコルチェスターに移り住む。このころにはバイオリンやピアノを習い始め、地元の公立中高等学校、スタンウェイ校に入学するも、多様な価値観を認めるロンドンの自由な環境の中で育ってきたデーモンは、郊外特有の均一な価値観を押し付ける学校の気風に合わず、いじめにもあったという。しかし12歳の時、1学年下の後のバンドメイトでもあるグレアム・コクソンと出会う。二人は昼休みや放課後、学校の音楽棟やグレアムの家で音楽を通じて親交を深め、二人でオーケストラでオリジナル曲を披露したり、バンド活動もするようになる。15歳の時には全国規模のクラシック作曲コンクールでヤング・ミュージシャン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。しかし、中学時代から始めていた演劇への興味が大きくなり、中高等学校卒業後の1986年9月、ロンドン近郊・デブデンの演劇学校イースト15に入学。しかし役者としての能力に限界を感じ、1年で退学する。その後、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジの定時制に入学し、同じくゴールドスミスに入学していたグレアムと再び同級生となる。音楽に対する情熱を再び取り戻したデーモンは、デモテープをビート・ファクトリー・スタジオに持ち込み、スタジオのお茶汲み係として働くことと引き換えに、深夜にスタジオを自由に利用させてもらう契約を獲得する。このスタジオでデーモンはいろいろなバンドを組んだり[3]、音楽的な才能を伸ばしていった。程なくソロでのプロデビューの話が舞い込むもバンドとしてのキャリアに拘った為断っているが、そこで組んだバンドの一つが後のブラーの前身となるバンド「サーカス」だった。

ドラムのデイヴ・ロウントゥリーも参加していたサーカスは後にギタリストのグレアムと、グレアムの大学の友人であったベーシストのアレックス・ジェームスが加入しバンド「シーモア」が誕生した。1989年、ライブ活動を始めるとすぐにレコード会社との契約を獲得。1990年にはバンド名を「ブラー」に改名し、デーモンはフロント・マンとしてメジャー・デビューを果たした。
1990年代、ブラーでのブレイク

1991年のファーストアルバム『レジャー』では早くも全英7位を獲得するなど、イギリスではとんとん拍子で成功を収めるも、その後のアメリカ進出には失敗。この経験から、イギリス的なものにバンドのアイデンティティを強く求めるようになり、アメリカ発のグランジブーム吹き荒れるイギリスのチャートシーンにおいて、レコード会社の反対を押し切り、敢えてブリティッシュ・ロックの伝統を踏襲したアルバム、『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』を発表する。当時の流行には乗らなかったため、セールス的には振るわなかったものの、作品そのものは高い評価を獲得した。アルバム製作時、デーモンは英国的な音楽の流行が訪れることを予見していたが、その通りに1993年ごろからイギリス的な音楽は徐々に国内で盛り上がりを増しつつあった。

1994年発表のアルバム『パークライフ』、1995年発売の『ザ・グレイト・エスケープ』で、英国的音楽のムーブメントは最高潮に達して「ブリットポップ」ブームが沸き起こり、デーモンは一躍シーンの中心人物となる。クラシックの素養を感じさせるポップな音楽性と三人称を主語としたシニカルで物語風の作詞技法、派手なライブパフォーマンス、愛用のフレッド・ペリーのポロシャツや、アディダスナイキを小奇麗に着こなすモッズ風のファッションから、「ネオ・モッズ」のアイコンとして人気を博し、その甘いルックスから、当時日本でもファッション雑誌の特集にも多く登場していた。

デーモン自身も当時は「ポップな人」をキーワードに自身のアイデンティティを追求していったが、ブラーより少し遅れてブレイクをしたオアシスとの対立[4]や、マスコミの執拗な狂騒からパニック障害を患うなど、精神的に疲弊をきたしてまう。ローファイな音楽志向であったグレアムとも、あまりにもポップになったブラーの音楽性を巡って、対立するようにもなる。ロスキルド・フェスティバルでのデーモン(左)(1999年7月)

しかしその後、アイスランドレイキャビークに家を買ってブリットポップ狂騒から離れ、疎遠状態にあったグレアムと手紙をやり取りをしてお互いの仲を取り戻しつつ、今後のバンドの方向性を確かめあった。またこの頃からアメリカのオルタナティブ・ロックやヒップホップ・シーンにも接近するようになる。


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