デヴィッド・リーン
Sir David Lean KBE
『キネマ旬報』1964年2月決算特別号より
生年月日 (1908-03-25) 1908年3月25日
没年月日 (1991-04-16) 1991年4月16日(83歳没)
出生地 イギリス サリー州(現ロンドン市内クロイドン区)クロイドン
死没地 イギリス ロンドン タワー・ハムレッツ区ライムハウス (en
受賞
アカデミー賞
監督賞
1957年『戦場にかける橋』
1962年『アラビアのロレンス』
カンヌ国際映画祭
グランプリ
1946年『逢びき』
国際映画批評家連盟賞
1946年『逢びき』[1]
ベルリン国際映画祭
金熊賞
1954年『ホブスンの婿選び』
ニューヨーク映画批評家協会賞
監督賞
1955年『旅情』
1957年『戦場にかける橋』
1984年『インドへの道』
AFI賞
生涯功労賞
1990年
歴史ドラマ映画トップ10(第1位)
2008年『アラビアのロレンス』
英国アカデミー賞
フェローシップ賞
1973年
ゴールデングローブ賞
監督賞
1957年『戦場にかける橋』
1962年『アラビアのロレンス』
1965年『ドクトル・ジバゴ』
外国語映画賞
1984年『インドへの道』
その他の賞
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デヴィッド・リーン(David Lean、1908年3月25日 - 1991年4月16日)は、イギリス出身の映画監督である。デビッド・リーンとも表記。 ロンドン郊外クロイドン生まれ。19歳のときゴーモンピクチャーを尋ね、使いっ走りとして雇われる。映画らしい最初の仕事はカチンコ係だった。 その後カメラマン助手、助監督、編集、などの仕事を経ていき、1942年に劇作家ノエル・カワードとの共同監督作品『軍旗の下に』で戦闘シーンの撮影を担当して監督デビューを果たす。作品は戦中ということもあり、イギリス海軍を主題にした英国に対する愛国心の強い内容だったが、初監督にして作品はアカデミー作品賞にノミネートされた。 1945年、カワードの短編戯曲『静物画』を映画化した恋愛映画『逢びき』で第1回カンヌ国際映画祭グランプリを受賞。その後も『大いなる遺産』(1946年)や『オリバー・ツイスト』(1948年)といったイギリス文学の映画化で監督を務め、1940年代から1950年代にかけてライバルであるキャロル・リードと共にイギリス映画界を牽引していった。 1954年、コメディ映画『ホブスンの婿選び』で第4回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞。 同年、リーンはリチャード・メイスンの小説『風は知らない(The Wind Cannot Read)』(1946年)の映画化に同意した[2]。同年5月14日、シンガポールで東南アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)が開幕[3]。リーンは主人公の日本人の女性の役を探すためわざわざ映画祭に訪れ、そこで野村芳太郎監督の『亡命記』に主演した岸惠子を見た。最終日の5月21日、岸は最優秀女優賞を受賞[4]。翌朝、リーンがホテルの岸の部屋に電話すると、岸は次回作の撮影のため日本へ発ってしまった後だった。同年6月3日、メイソンとともにに来日。同年6月18日、松竹、東和映画、文芸プロダクションにんじんくらぶの三者は話し合い、日英合作映画となる『風は知らない』の主演を岸に決定した[5]。同年12月31日、岸は英語をマスターするためロンドンへ発った。ところが1956年1月、プロデューサーを予定していたアレクサンダー・コルダとリーンとのあいだで意見が合わず、映画の制作は延期された[6][7]。『風は知らない』は結局、谷洋子を主演に据え、ラルフ・トーマス監督の映画として1958年に制作された。 1957年、ハリウッドのプロデューサーであるサム・スピーゲルとタッグを組んだ戦争映画『戦場にかける橋』が公開。戦前からチャップリンと並んで国際的に有名だった日本人俳優早川雪洲や、イギリスを代表する俳優アレック・ギネス、ハリウッドでも指折りのスター俳優ウィリアム・ホールデンなど、世界各国から豪華キャストが集結した本作は、ビルマの奥地であるジャングルでの撮影など過酷を極めたものだったが、公開されると大ヒットし、その年の全世界年間興行成績で1位を記録する。
来歴
下積み時代
映画監督として
世界的認知『ドクトル・ジバゴ』の撮影中のリーン