デヴィッド・ペトレイアス
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デイヴィッド・ハウエル・ペトレイアスDavid Howell Petraeus

生年月日 (1952-11-07) 1952年11月7日(71歳)
出生地 アメリカ合衆国
ニューヨーク州コーンウォール・オン・ハドソン
出身校アメリカ陸軍士官学校
プリンストン大学
所属政党無所属(2002年以降)
共和党(2002年以前)
称号理学士(アメリカ陸軍士官学校)
行政学修士(プリンストン大学
哲学博士(プリンストン大学
配偶者ホリー・ノウルトン(1974年から)
子女ステファン・ペトレイアス
アン・ペトレイアス
アメリカ中央情報局
第22代長官
在任期間2011年9月6日 - 2012年11月9日
副長官マイケル・モレル
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デイヴィッド・H・ペトレイアス
David Howell Petraeus
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴1974年から2011年まで
最終階級 陸軍大将
指揮国際治安支援部隊総司令官
アメリカ中央軍司令官
イラク多国籍軍司令官
陸軍諸兵科連合センター長
イラク多国籍治安移行業務統括部長
アメリカ軍第101空挺師団
戦闘ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
対テロ戦争
イラク戦争
除隊後アメリカ中央情報局長官(2011年9月から2012年11月まで)
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デイヴィッド・ハウエル・ペトレイアス(David Howell Petraeus、1952年11月7日 ‐ )は、アメリカ合衆国陸軍軍人。階級は退役陸軍大将。退役後に中央情報局長官を務めた。南カリフォルニア大学教授(2013年から)。
生い立ち

1952年11月7日にニューヨーク州南部の小さな村であるコーンウォール(コーンウォール・オン・ハドソン(英語版))でオランダ系アメリカ人の家庭に誕生する。父のシクストゥス・ペトレイアス(Sixtus Petraeus)はオランダ移民1世で元はオランダ本国で商船の船長をしていたが第二次世界大戦の勃発後まもなくアメリカに移民した[1][2]。移住後は、ニューヨークの船員向け教会(英語版)で出会ったアメリカ人のミリアム・ハウエル(Miriam Howell)と結婚し家庭を持つと共に[2][3]、戦時中はリバティ船の船長として軍事輸送任務に従事、戦後はニューヨーク州の電力会社に勤めた[1][2]。一方母のミリアムはブルックリン出身のアメリカ人でオベリン大学を卒業し司書として働いていた[4]

1974年にデヴィッドはアメリカ陸軍士官学校を卒業し、1983年にアメリカ陸軍指揮幕僚大学を最も優秀な成績で修了。1987年にプリンストン大学ウッドロー・ウィルソン公共政策・国際関係大学院にてPh.D(国際関係学)取得。博士論文の表題は、"The American military and the lessons of Vietnam : a study of military influence and the use of force in the post-Vietnam era(アメリカ軍とベトナムの教訓:軍の影響とポスト・ベトナム時代の軍事力行使に関する一考察)"。
イラク戦争

2003年3月にアメリカがイラクへ侵攻したことに始まるイラク戦争では、アメリカ軍第101空挺師団の司令官として前線指揮を執り、バグダード陥落に大きく貢献する。大規模な戦闘が終結した後はモースルで治安維持に当たる。同年11月に武装勢力に殺害された奥克彦とは生前に交流があった。

2007年1月にジョージ・W・ブッシュ大統領は同戦争の戦闘長期化により、イラクに対する5個戦闘師団・2万人規模の兵力増強とアメリカ中央軍・イラク駐留アメリカ軍の新人事の着手に踏み切る。アメリカ中央軍のジョン・アビゼイド司令官とイラク駐留アメリカ軍のジョージ・ケイシー・ジュニア司令官を事実上更迭。後任にはウィリアム・ファロン(英語版)海軍大将とペトレイアスがそれぞれ就任した。ただし、ケイシーはアメリカ陸軍参謀総長(2007年から)に昇進した。

当初は効果が疑問視されていたが2007年8月を境に増派は次第に奏効し、2008年5月にはアメリカ軍兵士の戦死者は開戦以来最低の19人に留まった。


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