デヴィッド・ファラガット
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デヴィッド・グラスゴー・ファラガット
David Glasgow Farragut
ファラガット海軍大将
生誕1801年7月5日
テネシー州キャンベルズ・ステーション(現在はファラガット)
死没1870年8月14日
ニューハンプシャー州ポーツマス(現在はメイン州キタリー
所属組織アメリカ海軍
軍歴1810年 – 70年
最終階級海軍大将
戦闘米英戦争
南北戦争
署名
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デヴィッド・グラスゴー・ファラガット(David Glasgow Farragut、1801年7月5日 - 1870年8月14日)は、アメリカ合衆国海軍軍人である。アメリカ海軍では初の海軍少将、同中将、同大将に昇った[1][2]南北戦争モービル湾の海戦で「機雷がなんだ。全速前進!」という命令を出したことで、大衆文化の中でも記憶されている[3][4]

山梨勝之進は「世界史的な観点から海軍の名将を列挙するならば」として8名の提督を挙げた上で[注釈 1]ホレーショ・ネルソン、デヴィッド・ファラガット、東郷平八郎の3名について特記している[5]
初期の経歴

ファラガットは1801年に、テネシー州ホルストン川(現在のテネシー川)沿いのロウズフェリで[6]、父ジョージ・ファラガット(英語版)、母エリザベス・シャイン(1765年-1808年)の息子として生まれた。父はスペインメノルカ島生まれであり、母はスコットランド系アイルランド人の子孫で、ノースカロライナ州出身だった。その出生地はテネシー州ノックスビルに近く、キャンベルズステーションの数マイル南東にあった[7]。父は渡し船を運航し、テネシー州民兵隊の騎兵士官も務めていた[2]。父のスペイン名はジョルディ・ファラグート・メスキーダ(Jordi Farragut Mesquida、父姓はFerragutとも)であり、メノルカ島のスペイン商船船長となった父アントーニ・ファラグートと母ホアナ・メスキーダのもとに生まれていた。1766年にアメリカに渡って、名をジョージに変えた[7]アメリカ独立戦争ではアメリカ側に付いた。戦中に海軍大尉となり、初めはサウスカロライナ州海軍、後に大陸海軍に勤めた。戦後西のテネシー州に移住した。

1805年、父はニューオーリンズ港での役職を引き受けた。父が先ずニューオーリンズに旅立ち、家族がその後に続いた。雇った川水夫の助けを借りた平底船での1,700マイル (2,700 km) に及ぶ冒険旅行であり、当時4歳のファラガットにとって初めての旅だった。家族がニューオーリンズで暮らしているときに、母が黄熱病で死んだ。父は幼い子供達を友人の家族に預けて、世話をしてもらう計画を立てた。

デヴィッド・ファラガットの生まれた時の名前はジェイムズだった。母の死後の1808年、父親同士が友人だった海軍士官デヴィッド・ポーターと暮らし、養子にされることになった[8]1812年養父の名を貰ってデヴィッドと名を変え、1810年後半には父と共に船に乗るようになった。養父の家は海軍一家だった。養家で兄弟になった中には後の南北戦争で海軍提督デイビッド・ディクソン・ポーターや海軍代将のウィリアム・D・ポーターがいた。
結婚と家族

ファラガットはUSSフェレットの副官に任命され、最初の巡航を終えた後、1823年9月24日にスーザン・キャロライン・マーチャントと結婚した[9]。スーザンは数年間病気を患った後の1840年12月27日に死亡した。ファラガットは妻の病気療養中にその面倒を良くみたことで知られている[10]。3年後の1843年12月26日にバージニア・ロイアルと再婚し、1844年10月12日に息子のロイアルが生まれた。
海軍での任務ワシントンD.C.の国立肖像画ギャラリーにあるファラガットの肖像画

ファラガットの海軍での経歴は9歳のときに士官候補生として乗り組んだことに始まり、40年以上の間に幾つかの戦争に従軍した。特に南北戦争では幾つかの海戦で決定的な勝利を挙げたことで知られている。
米英戦争

ファラガットは1810年12月17日、9歳の時に養父の影響力でアメリカ海軍の士官候補生となった[11][note 1]。12歳で捕獲品管理者となり、米英戦争ではデヴィッド・ポーター海軍大佐の下で戦った。USSエセックスに乗り組んでいた1812年8月13日、イギリス海軍のHMSアラート捕獲の現場にいた[12][13]。この後、捕獲したアラートを安全な港まで回航する任務を与えられた[14]1813年、ヌークヒバ作戦で太平洋に向かい、太平洋ではアメリカ初の海軍基地と植民地建設に関わり、マディソンビルと名付けた。このとき島の敵対的な部族と戦闘になったが、同盟したテ・アイイ族の協力も得た。

1814年3月28日チリバルパライソ湾でイギリス艦と戦った時に、ファラガットは負傷し、捕虜になった[15]
西インド諸島

1822年、ファラガットは海軍大尉に昇進した。西インド諸島海賊に対する作戦を実行中だった。カリブ海海賊と戦うために艤装された艦船の「モスキート艦隊」で任務に就いた。昔の艦長であるポーター准将が艦隊指揮を執ることを知ると、ポーターの弟であるジョン・ポーターが指揮する小艦の1つグレイハウンド乗艦を求め、認められた。1823年2月14日、艦隊は西インド諸島に向けて出帆し、その後の6か月で、海賊をカリブ海から追い出し、様々な島の隠れ家から駆逐した[16]。この作戦ではエクスペリメントの副艦長になった[17]1824年、USSフェレットの指揮を任され、初めて指揮する艦となった[18]
メア島海軍造船所

1853年アメリカ合衆国海軍長官ジェイムズ・C・ドビンが、サンパブロ湾のサンフランシスコ近くにメア島海軍造船所を造る役目にファラガット海軍中佐を選んだ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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