デヴィッド・アレン
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デヴィッド・アレン
Daevid Allen
デヴィッド・アレン(2009年)
基本情報
出生名Christopher David Allen
別名Divided Alien、Bert Camembert、Dingo Virgin、Ja Am
生誕 (1938-01-13) 1938年1月13日
出身地 オーストラリア メルボルン
死没 (2015-03-13) 2015年3月13日(77歳没)
ジャンルサイケデリック・ロックスペース・ロックジャズ・ロック、サイケデリック・フォーク、パフォーマンス・ポエトリー
職業ミュージシャン
担当楽器ギター、ボーカル
活動期間1960年 - 2015年
共同作業者ゴングソフト・マシーン
公式サイト ⇒daevidallen.com

デヴィッド・アレン[1](Daevid Allen、1938年1月13日 - 2015年3月13日)は、時としてディヴァイデッド・エイリアン(Divided Alien)と呼ばれた、オーストラリアの詩人、ギタリスト、歌手、作曲家、パフォーマンス・アーティスト。サイケデリック・ロック・グループのソフト・マシーン(1966年、イギリス)と、ゴング(1967年、フランス)の創設メンバーのひとり[2][3][4]
略歴
活動初期

1960年、メルボルンの書店で働いていたときに発見したビート・ジェネレーションの作家に触発され[5]、アレンはパリへと旅行し、ビートホテルにて、アレン・ギンズバーグとピーター・オーロフスキーが引き払ったばかりの部屋に滞在した。ル・シャ・キ・ペッシュやカルチエ・ラタンの周辺でインターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙を販売する仕事の合間に、テリー・ライリーと出会い、その地域のジャズ・クラブに無料でアクセスできるようになった[6]

1961年、アレンはイングランドへ旅し、ドーバー近くのリッデンに部屋を借りた。そこですぐにミュージシャンとしての仕事を探し始めた。最初に、ドーバーを拠点に活動していたグループ、ローリング・ストーンズ(同名である後の有名バンドとは関係ない)に参加を請うギター・プレーヤー募集の新聞広告に返信した。彼らは歌手でギタリストのニール・ランドンを失ったところだったが、アレンは参加に至らなかった。ウィリアム・S・バロウズと出会い、サン・ラの哲学に触発された後、彼はフリー・ジャズを発信するデヴィッド・アレン・トリオ(Daevid Allen Trio。「David」の綴りを、気取った表現として採用された「Daevid」とした)を結成。これには家主の息子で16歳だったロバート・ワイアットが参加した。彼らは、小説『爆発した切符』に基づいたバロウズの劇場作品で演奏を行った。1966年、ケヴィン・エアーズマイク・ラトリッジを加え、彼らはバンド、ソフト・マシーンを結成した。その名前はバロウズの小説『ソフト・マシーン』に由来している。エアーズとワイアットは以前から共にワイルド・フラワーズで演奏していた[6]

1967年8月のヨーロッパ・ツアーの後、アレンはそれ以前の訪問によってビザを超過したため、イギリスへの再入国を拒否された。彼はパリに戻り、パートナーのジリ・スマイスと一緒にゴングを結成した。彼らはまた同時に、バナナムーン・バンドを結成した。この2つのプロジェクトは、2人が1968年のパリ抗議行動に参加し、テディベアを警察に配ったり、ピジン・フランス語で詩を暗唱するなどしていたため、短縮されることとなった。アレンは、ビートニクであるとして他の抗議者たちに軽蔑されたことを認めている。彼らは警察から逃げ出し、1966年にしばらく住んでいたマヨルカ島のデイアへと向かい、ロバート・ワイアット家の友人である詩人ロバート・グレーヴスと出会った。

1969年8月にパリに戻った彼らは、BYGアクチュエル・レーベルからアルバムを作る機会を提供され、1970年3月にリリースされた新たなゴングを結成し、アルバム『マジック・ブラザー』をレコーディングした[6]
1970年代

1971年、アレンはBYGアクチュエルのために彼の最初のソロ・アルバムである『バナナ・ムーン』(Banana Moon。「Bananamoon」と綴られることもある)を録音してリリースした。彼が1968年に結成したオリジナルであるバナナムーン・バンドのリズム・セクションは参加していなかったが、ロバート・ワイアット、ジリ・スマイス、ゲイリー・ライトピップ・パイルマギー・ベルなどが参加した。ピップ・パイル(ドラム)を伴うゴングのラインナップは、デヴィッド・アレン(ギター、ボーカル)、ジリ・スマイス(ボーカル)、クリスチャン・トリッシュ(ベース)、ディディエ・マレルブ(ウッドウィンド)が加わって安定した。このグループは、映画『コンチネンタル・サーカス』のサウンドトラック、詩人ダシェル・エダヤのアルバム『オブソリート』、ゴング名義のセカンド・スタジオ・アルバム『カマンベール・エレクトリック』で演奏した。

10月、アレン、スミスと、その他のゴング・メンバーは、パリ南東120kmのヴォワジンやサンスの近くにあるパヴィリオン・ドゥ・ヘイと呼ばれる放棄された12部屋の狩猟小屋に引っ越した。彼らは1974年初頭までそこに拠点を置いていたとされる[7]。1972年後半、彼らに電子音楽家のティム・ブレイクが加わった。その後、スティーヴ・ヒレッジピエール・ムーランも参加して、『フライング・ティーポット』『エンジェルス・エッグ』『ユー』からなる「ラジオ・グノーム・インヴィジブル三部作」を録音した[6]リチャード・ブランソンのマナー・スタジオでの『フライング・ティーポット』のレコーディング中にBYGレコードが破産したため、バンドは1973年にヴァージン・レコードと契約した。ゴングが、マイク・オールドフィールドの『チューブラー・ベルズ』に続く2番目のヴァージンからのリリースとなった。アレンの著書『Gong Dreaming 2』によると、フライング・ティーポットのアイデアはラッセルのティーポットに影響を受けている。1974年、ロンドンハイド・パークで演奏するアレン

アレンは1975年4月にゴングを脱退し、さらに3枚のソロ・アルバム、『グッド・モーニング』(1976年)、『ハピエスト・タイム』(1977年)、『ニグジストゥ・パ!』(1979年)をレコーディングした。この数年間、彼はデイアのヒッピー集団に暮らし、カン・アム・デス・ピュイクというバンドのアルバムである『ザ・ブック・オヴ・AM』の制作に貢献し、4トラックのTEACオープンリール式テープレコーダーを貸与した。

1977年5月下旬、アレンはプラネット・ゴングとして演奏および録音を行い、その後、フランス・パリのヒッポドロームにおける1回限りの公演のために、「ラジオ・グノーム・インヴィジブル三部作」をこのグループによるバージョンに改変した。最初のゴングの再結成公演では、マイク・ハウレットのバンド、ストロンチウム90の構成員として最初のライブ出演となったスティングスチュワート・コープランドアンディ・サマーズをフィーチャーした。それはサマーズがコープランドとスティングの両名によるポリスに加わる前のことであった。ゴングによるコンサートの編集バージョンは、1977年後半に2枚組ライブ・アルバム『ゴングよ 永遠なれ』としてリリースされた。

1978年、アレンは旧知の音楽プロデューサーであるジョルジオ・ゴメルスキーの招待でニューヨークに渡り、パンクの影響を受けたニューヨーク・ゴングを形成するために初期のマテリアルとチームを組んだ。


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