(地域の旗)(地域の紋章
公用語英語
主都シャーロット・アマリー
最大の都市シャーロット・アマリー
政府
大統領ドナルド・トランプ
知事(英語版)アルバート・ブライアン(英語版)
副知事トレゲンザ・ローチ(英語版)
代表合衆国下院議員ステイシー・プラスケット(英語版)
面積
総計1,910km2(182位)[1]
水面積率81.8%
人口
総計(2016年)102,951人(195位)[1]
人口密度53.9人/km2
GDP (MER)
合計(2013年)50.75億ドル(N/A)[1]
GDP (PPP)
合計(2013年)37.92億ドル(178位)[1]
1人あたり36,833ドル
成立
購入(英語版)1917年3月31日
自治法(英語版)1954年7月22日
通貨USドル (USD)
時間帯UTC -4(DST:なし)
ISO 3166-1VI
ccTLD.vi
国際電話番号+1-340
アメリカ領ヴァージン諸島(アメリカりょうヴァージンしょとう、英語: Virgin Islands of the United States)は、西インド諸島にあるアメリカ合衆国の保護領(自治領)。ヴァージン諸島の西側半分でかつては「デンマーク領西インド諸島」としてデンマークの植民地であった。デンマークが植民地としての関心を失った、20世紀初頭にアメリカ合衆国が買収して今に至る。東側は、イギリス領ヴァージン諸島。「島」と呼ばれるのは40程度あるが、ほとんどが無人島である。人が住み、一般の観光客が訪れるような主要な島は、セント・トーマス島、セント・クロイ島、セント・ジョン島の3島である。首都は、セント・トーマス島のシャーロット・アマリー。
目次
1 歴史
1.1 コロンブス以前
1.2 植民地化
1.3 デンマーク領西インド諸島
1.4 アメリカ領ヴァージン諸島
2 政治
2.1 セント・クロイ島問題
3 地理
3.1 セント・トーマス島
3.2 セント・ジョン島
3.3 セント・クロイ島
4 経済
5 交通
6 住民
7 出典
8 関連項目
9 外部リンク
歴史
コロンブス以前詳細は「先コロンブス期」を参照
石器時代にまでさかのぼれば、おそらくアラワク族の狩猟採集民シボネイ族がいたと考えられている。しかし痕跡は残っていない。
カヌーの制作と船舶の操縦技術に長けたアラワク族は、アマゾン川とオリノコ川の流域から移住し、綿、タバコ、トウモロコシ、キャッサバ、グアバを栽培した。いくつかの洞窟壁画や岩石彫刻が島に残されている。カリブ族が侵入するまで、彼らの文化は数百年続いた。
残忍な食人の評判で知られるカリブ族は、平和に暮らすアラワク族の多数の集落を破壊した。1400年代の半ばまでには、アラワク族の人口は数千までに減らされた。 1493年11月、クリストファー・コロンブスは最初にセント・クロイ島に到達し、サンタ・クルースと名付けて上陸した。その後、サンフアン(セント・ジョン)島、サントマス(セント・トーマス)島に到達し命名した。その時ガイドとして、6名のアラワク族を誘拐した。 1625年には、イギリス、フランス、オランダ、スペイン、デンマークが入植を始める。最初、入植者達はセント・クロイ島に入植し農業を始めた。しかし、収穫は少なく生活は豊かではなかった。殺人と病気と過酷な奴隷制度で、アラワク族は1600年代後半までには完全に滅亡し、わずかなカリブ族しか生き残らなかった。 殆どの入植者達は島から去り、1650年にはイギリス人だけが残った。その後、新大陸に注目していた、デンマークが1666年にセント・トーマス島とセント・ジョン島の領有権を得る。1673年、インディアン奴隷がいなくなったため、アフリカ人奴隷が初めて島に連れて来られた。デンマーク統治下の各島では、アフリカからの奴隷を使ってサトウキビとタバコ農園(プランテーション)が経営された。後にコーヒーや砂糖も生産されるようになる。 厳しい扱いによって奴隷は不満を募らせていた。1733年、破壊的なハリケーンの後に続いた長い干ばつで、奴隷たちは限界点に達し、セント・ジョン島で反乱を起こした。この時オランダはフランスの助けを借り、統治状態を取り戻した。 1733年、デンマークはフランスよりセント・クロイ島を買収し領有権を得た。その後、デンマーク領西インド諸島 (Dansk Vestindien) と称し、デンマーク国王に任命された総督によって統治される体制となった。
植民地化
デンマーク領西インド諸島