デンマーク海峡海戦
轟沈するフッドを描いた画
戦争:第二次世界大戦
年月日:1941年5月24日
場所:デンマーク海峡
結果:ドイツの戦術的勝利
交戦勢力
ドイツ海軍 イギリス海軍
指導者・指揮官
ギュンター・リュッチェンス
エルンスト・リンデマン ランスロット・ホランド
デンマーク海峡海戦(デンマークかいきょうかいせん、英:Battle of the Denmark Strait)は、第二次世界大戦中の1941年5月24日、イギリス海軍とドイツ海軍の間で行われた海戦。通商破壊のために大西洋に進出しようとするドイツ戦隊と、それを阻止しようとするイギリス戦隊によって戦われ、ドイツ側が戦術的に勝利[1]した。 イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦フッドは、通商破壊作戦のために北大西洋に出撃しようとするドイツ戦艦ビスマルクおよび重巡洋艦プリンツ・オイゲンをデンマーク海峡に迎撃した。 イギリス艦隊が砲撃を開始して10分足らずのときに、ビスマルクの砲弾がフッドの後部弾薬庫付近に運命的[2]に命中した。不運にも誘爆が生じ、フッドは8分[3]もかからずに沈没した。生存者はわずか3人だった。 プリンス・オブ・ウェールズはビスマルクと交戦し続けたが、主機の深刻な故障に悩まされていた。これに戦闘の被害が加わり、主砲の大半が使えなくなったため、戦闘から離脱せざるを得なくなった。 ビスマルクも作戦行動は十分に行えたものの損害を受けており、プリンス・オブ・ウェールズの追撃は諦めて、プリンツ・オイゲンとともに大西洋に向かった。 1941年5月18日、ドイツ海軍の新戦艦ビスマルクは広範囲な試験をついに終え、処女航海である通商破壊作戦「ライン演習作戦」に出撃する準備が整った。ビスマルクはやはりこれも初の任務となる新巡洋艦プリンツ・オイゲンを伴っていた。ドイツの艦隊司令官ギュンター・リュッチェンス提督は、グリーンランドとアイスランドに挟まれたデンマーク海峡を通って大西洋に出撃し、北大西洋の連合国輸送船団を攻撃することにしていた。戦争初期の、戦艦シャルンホルストやグナイゼナウなどのドイツ主力艦による襲撃は敵に大きな損害を与え、イギリスは船団護衛のためにリヴェンジ級などの旧式戦艦を何隻も使わざるをえなくなっていた。これらの艦は旧式でしかも鈍足だったが、15インチ(38.1 cm)砲で武装しており、ドイツの重巡洋艦やポケット戦艦の大部分より強力だった。しかしビスマルクとプリンツ・オイゲンの組み合わせは、そうした戦艦1隻に護衛された輸送船団を襲撃するリスクも冒すことが可能だった。すなわちビスマルクは護衛の戦艦を打ち破ることができ、もう1隻のプリンツ・オイゲンが、護衛を失った商船を追撃し、沈めることができたからである。 2隻はグリーンランド、アイスランドとイギリスを結ぶ線(GIUKギャップ)を西へ通過すると予測され、イギリス海軍の艦船が可能性のありそうな経路を監視していた。索敵を援助するはずだった航空機は、ドイツ戦隊が突破を企てた時点では、雲と雨のため、その役割を果たすことができなかった[4]。5月23日の夕方、存在を秘匿する悪天候という利点にもかかわらず、ドイツ戦隊は、27ノットで航行しているところをイギリス重巡洋艦ノーフォークとサフォークによって視認された。彼らはフレデリック・ウェイク=ウォーカー 翌朝、ドイツ戦隊はアイスランドとグリーンランドの間の海峡においてイギリス艦隊の迎撃を受けた。イギリス艦隊は戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦フッド、および護衛の駆逐艦部隊からなり、フッド座乗のランスロット・ホランド
概要
背景
プリンス・オブ・ウェールズは、新たに就役したキング・ジョージ5世級戦艦で、ビスマルクとほぼ同じ大きさと攻撃力を持っていたが、慣熟訓練を終えておらず、乗組員は未熟なままだった。さらに主兵装について機械的な問題を抱えており、まだ造船所の工員を乗せたままで出動していた[5].。
フッドは、1918年に就役して以来20年にわたって世界最大の軍艦であった。両大戦間におけるフッドは、他のどの軍艦よりも、そして自国ばかりでなく世界中から、イギリスの海軍力の象徴とみなされていた。しかし、巡洋戦艦である以上、防御面に不安が残されていた。不幸なことに、第二次世界大戦へ向かう急激な情勢の展開は、フッドの完全な改装(特に下層甲板の装甲の3インチから5ないし6インチへの強化)を許さなかった。