デンマークの歴史
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20世紀末のデンマークの国土(赤)、スウェーデン(黄色)も示した

デンマークの歴史(デンマークのれきし)では、先史から現代までのデンマーク歴史を述べる。
先史時代詳細は「北欧史#先史時代」を参照
北欧石器時代詳細は「en:Nordic Stone Age」を参照

現在のデンマークには紀元前12000年頃から人が住み続けていると考えられている。デンマーク地方で新石器時代が始まったのは紀元前3000年ごろと考えられており、同じころ、農業が始まったとみられる。紀元前2000年ごろ、インド・ヨーロッパ系の人びとの侵入によって単葬墳文化がもたらされた[1]
北欧青銅器時代詳細は「北欧青銅器時代」を参照

紀元前1500年ごろ青銅器文化がデンマーク地方に到来したとみられる[1]。ドイツから北欧にかけて分化し成立したゲルマン人(西方系)の住む地となっていった。
鉄器時代

紀元前500年頃、ケルト人により北欧鉄器がもたらされた。これ以降を、ケルト鉄器期(前ローマ鉄器期)と称する。この時期に集落の形成が進んだ。

紀元前後に入ると、ローマ人との接触がみられた(これよりローマ鉄器期)。北欧とローマ帝国の間では交易も行われ、北欧からは毛皮琥珀などが輸出され、ローマから祝杯やワインなどが輸入されたと考えられる。ローマ鉄器期の発掘物に沼地から発掘された湿地遺体がある。著名なものにトーロン人(Tollundmanden)、グラウベール人(rauballemanden)がある。デンマーク内で100体以上の遺体が見つかっており、その中には極めて保存状態が良好なものもある。なぜ沼地に多くの遺体が眠っているのかという理由については、処刑説や人身御供説などが存在する。

5世紀頃よりゲルマン鉄器期に入る。この時期における史料は欠落しており、正確なことは分からない。遺跡からはローマの金製品などが出土している。
デーン人の到来

ゲルマン民族移動の時代に、北方系ゲルマン人ノルマン人)の一派であるデーン人が、スウェーデン南部スコーネ地方を通って現在のデンマークの地へ到来した。それまでの先住民である西方系ゲルマン人のアングル人サクソン人ジュート人を圧倒し、最終的に同化していった。デーン人は現在のデンマーク人の祖先となった。

彼らを知る文献、伝承として、サーガ北欧神話などがあり、北ゲルマン人の文化思想などの動向を見る事ができる。
中世
ヴァイキング時代詳細は「ヴァイキング時代」を参照Ladby ship--デンマークで見つかった最大級の埋葬船

北欧史において8世紀から11世紀にかけては「ヴァイキング時代」と呼ばれる[2]。デーン人もヴァイキングとして知られる。優れた造船と航海技術により、デーン人はフランスやブリテン島を攻撃し、征服していった。

文献に登場する最初のデーン人の王は8世紀前半のオンゲンドウスであり、かれはヴァイキングの首長であったとみられる[3]。デーン人の最初の王たちは、デーン人の居住域の南端にダーネビアケという土塁を構築して、ヘーゼビューハイタブの交易地防衛と国土への他勢力侵入の防止に意を注いだ[1]

デーン人は西ヨーロッパ一帯を襲撃し、現在のイングランドアイルランドフランススペインポルトガルイタリアなどに侵攻した。デーン人の伝説の英雄ホルガー・ダンスク(オジェ・ル・ダノワ

ヨーロッパ大陸では、9世紀初頭になるとカール大帝率いるフランク王国が勢力を拡大し、デーン人の支配する地域の南端にまでさしかかった。フランク王国の文献にはデーン人の存在が記載されている(例えば、"Notker of St Gall")。"Notker of St Gall"によれば、804年ゴズフレズ王が海軍をともない現在のホルシュタインに現れ、フランク王国と外交交渉をおこなった。808年、ゴズフレズ王はオボトリート族を攻撃し、レリク(英語版)を支配して、そこにいる住民をヘーゼビューに移住させている。809年、ゴズフレズ王の姉か妹をカール大帝の側室として和議を結ぼうとしたが、和平交渉は決裂した。翌810年、ゴズフレズ王は200隻の船でフリースラントを攻撃し、海軍力を持たなかったフランク王国は防戦に事を欠いた[4]

ヴァイキングは海岸線を伝い、現在のフランスやオランダにあたる地をしばしば攻撃した。デーン人は、834年にフランク王国を襲撃、843年にはロワール川の河口に近いナントを襲った[2]

デンマークでは現在のデンマーク王家の実質上の始祖であるゴーム老王がユトランド半島のイェリングの地に興起した。ゴーム老王の子のハーラル1世(ハーラル青歯王、ハラルド、958年頃即位)は現在のデンマークとスウェーデン南部の統一をほぼ達成した[3]。彼はキリスト教を受け入れ改宗した。
「デーン人の国」

デンマークの国名は、「デーン人の国」という意味であり、「デーン人」とはユラン半島(ユトランド半島)のノルマン人のことである。イングランドやアイルランドでは、現在のデンマーク方面からやって来るノルマン人を「デーン人」と呼称した[5]。ただし、この時代における「デーン人」の概念を、現在のデンマーク人と同一のものと考えてはならない。この段階では、「デンマーク君主の統率下にある人々」という程度にすぎない(一例を挙げれば、この時代にスカンディナヴィア半島からユトランド半島にやってきてデンマーク王に従えば「デーン人」である。決して、「スウェーデン人」傭兵や「ノルウェー人」傭兵ではない)。この時代においては、民族としての「デンマーク人」、「スウェーデン人」、「ノルウェー人」は確立しておらず、「デーン人」は必ずしも民族共同体を意味しておらず、いわば緩やかな政治的共同体だったのである。

フランク王国年代記』などには、デーン人の領域は今のデンマーク王国より広大であったと記されており、遺跡発掘調査からもこれを裏付ける遺構遺物が検出される。出土品の共通性などから、当時のデーン人は少なくとも4つの部族から構成されていたものと推測されている。いずれも便宜上、現在での地名で記す。
スコーネ(含マルメルンド)、東シェラン(含コペンハーゲン

西シェラン、フュン(含オーデンセ)、スレースヴィ

中部ユラン(含オーフス

北部ユラン(含オールボー)、東部ノルウェー(含オスロ

デーン人の文化圏と思われる地域は現在のデンマーク、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、南部・西部スウェーデン、東部ノルウェーというかなり広大な地域に広がっており、かなりの勢威を振るっていたことがうかがわれる。また、陸続きよりも「海続き」の方が交通量・物流量が多く、その頻度が密であったことを確認することができ、デーン人があらためて海洋民族であることが確かめられた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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