デレク・ジーター
Derek Jeter2017年5月15日、ニューヨークにて
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ニュージャージー州モリス郡ペカノック
生年月日 (1974-06-26) 1974年6月26日(49歳)
身長
体重6' 3" =約190.5 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手
プロ入り1992年 MLBドラフト1巡目 (全体6位)
初出場1995年5月29日
最終出場2014年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
カラマズー・セントラル高等学校
デレク・サンダーソン・ジーター (Derek Sanderson Jeter, 英語発音: [?d?r?k ?sand?s?n ?d??it?][1]; 1974年6月26日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州モリス郡ペカノック出身の元プロ野球選手 (遊撃手)、野球解説者。右投右打。MLBのニューヨーク・ヤンキースの第15 (11)代主将。背番号「2」はヤンキースの永久欠番。
1995年のデビューから2014年の引退までヤンキース一筋でプレーしたフランチャイズ・プレイヤー。現役生活20年間で5回のワールドシリーズ優勝、14回のオールスター選出があるほか、通算で3000本安打以上を記録、MLBを代表するスーパースターとして長年活躍した。ヤンキース・ファンからは敬意を持って「ザ・キャプテン (The Captain)」と呼ばれる。また、「ミスター・ヤンキース」とも呼ばれている。2014年にコミッショナー特別表彰を受賞した[2]。
2017年オフよりマイアミ・マーリンズの共同オーナーとなり、最高経営責任者 (CEO)を2022年2月まで務めた。 アメリカ合衆国ニュージャージー州ペカノックにて、アフリカ系アメリカ人(黒人)である父チャールズ、アイルランド系アメリカ人(白人)である母ドロシーの間に生まれる。父は心理学のPh.D.を持つカウンセラーであり薬剤師でもあり[3]、母は会計士であった。家族には他に妹のシャーリーがいる[4]。 4歳の時にミシガン州カラマズーへ移住。その後も毎年の夏休みにはニュージャージーに住む祖父母の下で暮らしていた。大のヤンキースファンであった祖母からキャッチボールを教わり、頻繁にヤンキースタジアムに観戦に連れて行ってもらったことで、デレクも祖母と同じようにヤンキースファンになった[4][5][6]。 大学野球でショートを守っていた父親の影響で、5歳の頃から野球を始める[3]。父はミシガン州へ移り住んでから地元デトロイト・タイガースのファンになっていたが、ヤンキースを熱心に応援するデレクの影響でヤンキースファンへと転向した。タイガースの本拠地タイガー・スタジアムでのヤンキース戦には、車で2時間半かけて観戦に訪れ、父にいつかこの舞台でプレーすることを約束した[3]。お気に入りの選手はデーブ・ウィンフィールドで、風貌が父親に似ていたことと、偶然にも父親と同じ分野の慈善事業に携わっていたことが大きいという[7]。 カラマズー・セントラル高校時代から頭角をあらわし、通算で5割を超える打率を残した。1992年にはアメリカ野球コーチ連盟(The American Baseball Coaches Association)から高校年間最優秀選手賞(The High School Player of the Year)に選出されている。また、バスケットボールでも州を代表する選手として活躍していた[7]。しかしNCAA(大学バスケ)校から声がかからず、野球に絞った。 1992年のMLBドラフトの注目選手となったジーターは、当時ヒューストン・アストロズのスカウトを務めていたハル・ニューハウザーに見出され、アストロズの1巡目指名候補となった。しかし、ジーターはミシガン大学から奨学金のオファーを受けており、契約金の高騰が予想されたため、アストロズはジーターの指名を見送り、フィル・ネビンを全体1位で指名した[8]。ジーターはニューヨーク・ヤンキースから1巡目(全体6位)で指名を受け[9]、入団した。 その際には両親が、オフに大学へ通ってもよいという条項を入れさせ、1992年のオフシーズンに一学期間ミシガン大学アナーバー校へ通った。しかし、翌1993年のオフシーズンは球団から守備の強化練習を命ぜられたため大学のクラス登録に間に合わず、1994年オフにはメジャーデビュー実現の可能性が高まり住居を球団のトレーニング施設のあるフロリダ州タンパに移したため、学業は中断している[7]。2004年には、スポーツ・イラストレイテッド誌に寄せた手記の中で、将来的に学業を再開したいという希望を持っていることを明かした[3]。 プロとしてのキャリアは、マイナーリーグルーキー級ガルフ・コーストリーグ・ヤンキースから始まる。ルーキー級では打率.202と苦しんだが、その年の後半にはA級グリーンズボロ・グラスホッパーズへと昇格[8]。
経歴
プロ入り前
現役時代