デル・シャノン
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デル・シャノン
1965年
基本情報
出生名チャールズ・ウィードン・ウェストオーバー[1]
生誕 (1934-12-30) 1934年12月30日
出身地ミシガン州グランドラピッズ
死没 (1990-02-08) 1990年2月8日(55歳没) サンタクラリタ
ジャンルロックカントリー・ミュージック
職業歌手、シンガーソングライター
担当楽器ギター
活動期間1958年 - 1990年
レーベルBigtopレコード、AMYレコード、Elektraレコード他
共同作業者マックス・クルック(英語版)
公式サイト ⇒DelShannon.com

デル・シャノン(Del Shannon、1934年12月30日 - 1990年2月8日)は、アメリカ歌手シンガーソングライター。デビューシングル「悲しき街角」がビルボード1位を獲得するなど自作の曲で1960年代前半に活躍。低迷期を抜けて1980年代に再評価の動きがあったものの、1990年にうつ病のため猟銃自殺を遂げた。
経歴・人物

ミシガン州グランドラピッズに生まれ、クーパースヴィルで育った。本名は、Charles Weedon Westover。ハンク・ウィリアムズ、ハンク・スノー、レフティ・フリッツェルらカントリー・ミュージックの影響を受ける。14歳の時にギターを手にしたのきっかけにミュージシャンになる事を決意。高校時代にはバンドを結成、ナイトクラブにも出入りし活動を開始する。

17歳の時に幼馴染と結婚する[2]

1954年、軍隊に入隊し駐屯先のシュトゥットガルトで「クール・フレイムズ」というバンドを結成する。1958年に除隊した後、バトルクリークでカーペットのセールスマンをする傍、ダグ・ディモットがリーダーを務めるカントリーロックバンド「Midnight Ramblers」に加入し、「The HI-Lo Club」の専属バンドとして活動する。ディモットが解雇された後、新リーダーとなり芸名をチャーリー・ジョンソン、バンド名をビッグ・リトル・ショー・バンドに改める。

1959年、元「ホワイトバックス」のメンバーでオルガニストのマックス・クルックが加入し、クルックの自作クラヴィオリン「ミュージトロン」を生かした演奏を行う。

クルックの友人でアナーバーのラジオDJオリー・マクラフリンがデモ・テープをデトロイトの音楽プロデューサーハリー・ボークとアーヴィング・ミカニクに送った結果、1960年7月、クルックと共にビッグトップ・レコードと契約する。この時、芸名をデル・シャノンに改名する[3]。芸名の由来はキャデラック・ドゥビルと、プロレスラーを兼業していたHI-Lo Clubパフォーマーのリング・ネームだったマーク・シャノン。

HI-Lo Club時代のレパートリーだった『リトル・ランナウェイ』を改題し、1961年2月にソロデビュー曲「悲しき街角(原題 ランナウェイ)」を発売、4週連続全米1位を記録する。ミシガン出身のボブ・シーガーを発掘し 『The Lonely One』を提供する。

その後もヒットを飛ばし、1963年にイギリスに上陸、ビートルズと面識を持ったのがきっかけでカバーした『フロム・ミー・トゥー・ユー 』がレノン=マッカートニー作品としては初めて全米TOP100にランクイン(77位)する。自主レーベルBERLEEレコードを設立し「プリティ・リトル・スー」他1枚のシングルを発売。

1964年、AMYレコードと契約し『太陽を探せ』などをヒットさせる。同年、ピーター&ゴードンに提供した「アイ・ゴー・トゥ・ピーセス」が全米9位を記録する(イギリスではヒットせず)。1966年、リバティ・レコードに移籍しスナッフ・ギャレットやアンドリュー・オールダムをプロデューサーに迎えるなど新機軸をとるが、皮肉にもブリティッシュ・インヴェイジョンによりソロ歌手としては長い低迷時代を迎える。

1966年頃、カントリー歌手のジョニー・カーヴァーを発掘する。1969年頃、ロサンゼルスの男女混成バンド「スミス」を発掘する[3]

1970年、ブライアン・ハイランドの『ジプシー・ウーマン』(原曲 インプレッションズ 1961年 作詞・作曲 カーティス・メイフィールド)をプロデュースする(全米3位)。

以降は目立った成果がなく、徐々に精神的バランスを崩しアルコール依存症になる[3]

1978年、トム・ペティのツアーにゲスト参加する。(1982年にはシャノンのツアーにペティがゲスト参加した)

1981年、トム・ペティがプロデュースしたアルバム『Drop Down and Get Me』を発売する(全米123位)[4]。フィル・フィリップス(英語版)のカヴァー「シー・オブ・ラブ」がシングルカットされ、翌年全米33位を記録する。

1985年、離婚[5]。来日しフジテレビミュージックフェア」に出演する。テレビ朝日のオールディーズ番組にも出演したが、番組開始後に入った日本航空123便墜落事故特別臨時ニュースのため、出演シーンがカットされた。

1987年、20代の女性と再婚。

1989年頃、シャノンのコンサートがきっかけでミュージシャンを目指した[6]ELOジェフ・リンのプロデュースでアルバム制作を開始する(トム・ペティも参加)。

ペティ、リンらが参加するトラヴェリング・ウィルベリーズに1988年12月に死去したロイ・オービソンの後継として加入する予定だったが[7]、1990年2月8日、うつ病のため自宅で猟銃自殺を遂げた[1]。妻は処方されたプロザックの副作用によるものだと製薬会社のイーライリリーを訴えた[5]

1991年10月1日、 リンとトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのギタリストマイク・キャンベル(英語版)の作業で遺作アルバム『Rock On!(英語版)』がリリースされる[3]
主な楽曲

悲しき街角 Runaway (1961) 全米1位・全英1位

花咲く街角 Hats Off to Larry
(1961) 全米5位・全英6位 ※坂本九のカバーが日本でヒットした。

さらば街角 So Long, Baby (1961) 全米28位・全英10位

(ヘイ・リトル・ガール)Hey! Little Girl (1961) 全米38位・全英2位 ※当時は日本未発売

鏡の中のジニー Ginny in the Mirror (1962) 全米117位 ※鹿内タカシのカバーが日本でヒットした。

夜ごとのなみだ Cry Myself to Sleep (1962) 全米99位・全英29位 ※日本では「スイスの娘」のB面

スイスの娘 The Swiss Maid (1962) 全米64位・全英2位

街角のプレイ・ガール Little Town Flirt (1962) 全米12位・全英4位

二つぶの涙 Two Kinds of Teardrops (1963) 全米50位・全英5位

フロム・ミー・トゥー・ユー From Me to You (1963) 全米77位 ※ビートルズのカバー

二つのシルエット(恋のシルエット) Two Silhouettes 全英23位 ※米日では「フロム・ミー・トゥー・ユー」のB面

プリティ・リトル・スー Sue's Gotta Be Mine (1963) 全米71位・全英21位[注 1]

ハンディ・マン Handy Man (1964) 全米22位・全英36位

恋する街角 Give Her Lots of Lovin' (1964) ※「ハンディ・マン」のB面

踊ろよベイビー(ダンスはいかが) Do You Want to Dance (1964) 全米43位 ※日本では「太陽を探せ」のB面

太陽を探せ Keep Searchin' (We'll Follow the Sun) (1964) 全米9位・全英3位

さすらいの街角(街角のストレンジャー) Stranger in Town (1965) 全米30位・全英40位

悲しみよ、さようなら Move It on Over (1965) 全米129位

涙の街角 Never Thought I Could (1966) ※アメリカでは「ショウ・ミー」(ノンチャート)のB面。日本ではこの曲がA面として発売された。


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