デルレイビーチ
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デルレイビーチ
City of Delray Beach
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標語:海のそばの村
フロリダ州、パームビーチ郡におけるデルレイビーチの位置
座標: 北緯26度27分33秒 西経80度4分59秒 / 北緯26.45917度 西経80.08306度 / 26.45917; -80.08306
アメリカ合衆国
フロリダ州
パームビーチ郡
行政
 - 市長ケーリー・グリックステイン
面積
 - 計15.89mi2 (41.2km2)
 - 陸地15.37mi2 (39.8km2)
 - 水面0.53mi2 (1.4km2)
標高9ft (5m)
人口 (2010年)
 - 計60,522人
 - 概算 (2016)[1]67,371人
等時帯 東部標準時 (UTC-5)
 - 夏時間東部夏時間 (UTC-4)
市外局番561
FIPS code12-17100
GNIS feature ID0281485
ウェブサイト ⇒http://www.mydelraybeach.com

デルレイビーチ(: Delray Beach)はアメリカ合衆国フロリダ州パームビーチ郡沿岸部の都市。人口は2010年国勢調査で60,522人。マイアミ大都市圏に属する。
目次

1 歴史

1.1 第二次世界大戦以前

1.2 第二次世界大戦後


2 地理

2.1 ダウンタウン

2.2 気候


3 人口動態

4 スポーツ

5 経済

5.1 小売業

5.2 観光業

5.3 近年の発展

5.4 雇用主


6 著名な建造物

6.1 見どころ


7 交通

7.1 高速道路

7.2 鉄道

7.3 バス

7.4 シャトルバス

7.5 水上交通


8 姉妹都市

9 脚注

10 出典

11 外部リンク

歴史
第二次世界大戦以前

この地域にはネイティブアメリカンが何度も通過したり居住したりしていた。18世紀から19世紀にかけては猟師、罠師、また逃亡奴隷も通過、居住していたと考えられるが、はっきりした記録や証拠はない。

記録のある歴史は、1876年のオレンジ・グローブ海難救護所の建設に始まる。オレンジ・グローブという名前は、熟したサワーオレンジや様々なトロピカルフルーツの木立が建物を建設するのに選ばれた場所にあったことに由来する。しかし、誰が木を植えたのかという記録や証拠は残っていない。

1884年頃に入植が始まり、フロリダ州北部のペンハンドル地方から来たアフリカ系の人々がオレンジ・グローブ海難救護所の内陸の土地を購入し、耕作を始めた。1894年までにはこの地域で最初の学校が建設されるほど、黒人のコミュニティは成長していった。

1894年、ミシガン州サギノー出身の下院議員ウィリアム・S・リントンはオレンジ・グローブ海難救護所西方の土地を購入し、農業コミュニティにすることを目指して小区画の販売を始めた。最初の頃は、このコミュニティはリントンと名付けられていた。1896年、ヘンリー・フラグラーはフロリダ東海岸鉄道をウェストパームビーチからマイアミに延伸し、リントンに駅が設置された。

リントンの住民は北部の市場向けの冬野菜の栽培を始め、成功を収めた。しかし1898年に強い寒波に襲われ、ウィリアム・リントンを含め多くの住民がこの地を離れた。1901年、コミュニティの運勢を変える試みで、また悪い評判を捨て去るために、デトロイト近郊の村デルレイ(デルレイとはスペイン語で「王様の?」という意味の言葉"Del Rey"を英語風にしたもの)に因んでデルレイに改名した。

1909年までに、デルレイ入植地はデイド郡に編入された。同年、デイド郡の北部がパームビーチ郡として分離された。1915年、パームビーチ郡とデイド郡がほぼ同じ広さの領域を出し合いブロワード郡が設置されたため、デルレイはパームビーチ郡の南東部に位置することになった[2]

1910年、デルレイの人口は250人だった。1911年、法人化された町としてフロリダ州から特権を与えられた。同年、パイナップルトマト缶詰工場が建設された。パイナップルはこの地域では主要な作物である。このことは、現在のデルレイビーチのダウンタウンそばにあるパイナップル・グローブという名前にも反映されている。1920年までに、デルレイの人口は1,051人に達した。 1913年に建てられたデルレイ・スクール。現在のコーネル博物館内にあり、オールド・スクール・スクエアの一部。 アメリカ合衆国国家歴史登録財に登録されているジョン & エリザベス・ショー・サンディハウス

1920年代、エバーグレーズの排水によってデルレイの地下水面が低下し、パイナップルの生長が難しくなった。一方でフロリダ東海岸鉄道がキーウェストまで延伸されたことで、北部の市場ではキューバ産のパイナップルとの競争にさらされる結果になった。

1920年代のフロリダ土地ブームはデルレイに新たな繁栄をもたらした。観光や不動産登記は地域経済の重要な一部分となった。デルレイは上下水道や舗装道路、歩道を整備するために債券を発行し、資金を調達した。ホテルも数軒建設された。当時、デルレイはフロリダ州の東海岸のウェストパームビーチフォートローダーデール間で最大の町だった。1926年に土地ブームが弾けると、デルレイは高額の借金を背負うことになり、固定資産税も大幅に減少した。

デルレイはフロリダ東海岸運河(現在は沿岸内水路の一部)によって大西洋の砂浜とは隔てられていた。1923年、運河と海の間の地域はデルレイビーチに編入された。1927年、デルレイとデルレイビーチは合併し、町の名前はデルレイビーチとなった。
第二次世界大戦後

第二次世界大戦が終結してから、フロリダ州道806号線(アトランティック・アベニュー)に沿って州間高速道路95号線の東側からビーチへ広がっているデルレイのダウンタウンは大規模な修復を受けた。1992年にはデルレイビーチ・テニスセンターが建設された。2004年のデビスカップ(アメリカ対スウェーデン)2005年のフェドカップ(アメリカ対ベルギー)、デルレイビーチ国際テニス選手権ATPワールドツアー・250シリーズ)など、いくつかの主要な国際大会のほか、クリス・エバートバンク・オブ・アメリカによるチャリティイベントも行われている。

20世紀最後の10年の間に、歴史的に重要な建築物が修復された。この中にはかつてのデルレイ小学校・デルレイ高校で、その後文化センター、コロニーホテルとなったオールド・スクール・スクエアも含まれている[3]


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