デルビー・デッラ・カピターレローマ・ダービー
都市、地域 イタリア, ローマ
初開催1929年12月8日
チームASローマ
SSラツィオ
最多勝利ASローマ(70勝)
デルビー・デッラ・カピターレ(Derby della Capitale)は、イタリア・ローマに本拠地を置くASローマとSSラツィオの間で行われるサッカーの試合のことである。デルビー・カピトリーノ(Derby Capitolino)またはデルビー・デル・クポローネ(Derby del Cupolone)とも呼ばれ、英語ではローマ・ダービー(Rome Derby)と表される。イタリアにおける四大ダービー(他はミラノ・ダービー、トリノ・ダービー(Derby della Mole
)、ジェノバ・ダービー(Derby della Lanterna))のひとつであるが[1][2]、ミラノ・ダービーやトリノ・ダービーを凌ぎ、イタリアで最も激しいローカル・ダービーである[1]。地元ではこのダービーが「試合以上の存在」と言われる。両クラブはともにスタディオ・オリンピコ・ディ・ローマを本拠地としている。歴史的にはサポーター集団による暴動や暴力[3]、近年では人種差別的な横断幕などで特徴づけられるダービーである。特にふたつの過激な事件がこの対戦の歴史を物語っている。1979年にASローマの本拠地で行われたダービーでは、ASローマサポーターによって撃たれた船舶用の信号弾がSSラツィオのサポーターの目に直撃し、イタリアサッカーにおいて暴力行為が原因で初の死者が発生した。2004年のダービーでは、警官によって子どもが殺害されたという誤った噂がASローマサポーターの間に流れ、ASローマのウルトラスはグラウンド上に侵入して試合を中断させようとした。
両クラブのサポーターはユヴェントスFC、ACミラン、インテルナツィオナーレ・ミラノなど北イタリアのビッグクラブの尊大さを嫌悪しているが、それよりも近くの敵への憎悪のほうが強いことは明らかである。両クラブともに北イタリア3クラブよりも獲得したトロフィーの数が少ないことからも、このダービーはどちらが首都の覇権を握っているのか証明するチャンスであると言える。
SSラツィオはプラティ地区近隣に設立され、当初はロンディネーラ・グラウンドで練習や試合を行っていた。ASローマはMotovelodromo Appioで試合を行っていたが、わずか2年後に新スタジアムが建設されてテスタッチョ地区に移った。スタディオ・オリンピコで試合を行う際、SSラツィオのウルトラスは伝統的にスタジアムの北側の一角(Curva Nord)を占め、ASローマのウルトラスは南側の一角(Curva Sud)を占める。 SSラツィオは1900年に設立された。ファシスト党のジョルジオ・バッカロ長官の影響力のおかげで、ASローマの設立以前のSSラツィオは首都唯一の主要なクラブであった。1927年、ASローマはイタロ・フォスキによってローマンFC、SSアルヴァ=アウダーチェ・ローマ、フォルティトゥード=プロ・ローマSGSが合併して設立された。極右のベニート・ムッソリーニがイタリア民族を統合し、より強力なローマのクラブを作って北イタリアのビッグクラブのリーグ支配を変える意図があった。SSラツィオはローマのクラブ統合に抵抗する唯一の主要クラブであり、両クラブの間には早い段階からある種のライバル意識が芽生えていった。初のダービーは1929年12月8日に開催され、ロドルフォ・ボルク
歴史
このダービーでは政治的な側面を持つ事件が何度も起こっている。SSラツィオのウルトラスはダービーの様々な場面において、ナチス・ドイツのハーケンクロイツやファシスト党のシンボルを横断幕に用いて人種差別的な態度を表現する[4]。1998-99シーズンのダービーでは、SSラツィオサポーターによって「アウシュヴィッツがお前ら(ASローマサポーター)の町だ。火葬場がお前らの家だ」という幅50mもの横断幕が掲げられた。ASローマの黒人選手たちはしばしば人種差別的で攻撃的な行為の対象となり、SSラツィオのウルトラスによってASローマが「ユダヤ人に従属する黒人のチーム」であるという横断幕が掲げられたこともある。逆にASローマのウルトラスはSSラツィオが「羊飼いに従う羊たちのチーム」であると横断幕で返答した。2000年には、SSラツィオのサポーターがセルビアの愛国主義者であり戦争犯罪者であるジェリコ・ラジュナトヴィッチ(アルカン)を支持する姿勢を示した。クラブはこれら少数派のサポーターと距離を取ること、このような行動に対して立ち向かうことを正式に明らかにした。ASローマのサポーターはしばしば不当に左翼であると表現されるが、実際は両クラブのウルトラスともに右翼的なイデオロギーを持っている。また、ASローマのファンもまた事あるごとに人種差別的な横断幕を掲げることで知られている。 2004年3月21日にオリンピコで行われたダービーは0-0でハーフタイムを迎えたが、後半開始の4分後に中止となった[5]。暴動はスタンドから発生し、イタリアサッカーリーグのアドリアーノ・ガッリアーニ(Adriano Galliani
2004年春の暴動
いつも通りの発煙筒での交戦を含むこの暴動は、スタジアムの外で警官の乗った車が少年を殺したという噂が広まったことで始まった。ASローマのウルトラスのリーダー格の3人がグラウンド上に乗り込み、ASローマのキャプテンのフランチェスコ・トッティにこの噂を伝えた。しかし実際は噂とは異なり、スタジアムの最後尾の座席で何人かがフィルターのように横たわって少年を取り囲み、催涙ガスを吸って呼吸困難に陥った少年を助けようとしていただけであった。警察は観客に向かって噂を否定したが、疑惑の目を完全に取り除くことはできなかった。ガッリアーニ会長が主審の携帯電話に電話して試合の延期を指示した[6]。
試合が延期された後のスタジアム周辺の通りでは、車が燃やされるなどの大きな混乱が起こった。13人のサポーターが逮捕されて170人以上のサポーターが負傷し、警官も1人が負傷した。この試合は4月21日に再開され、観衆の間に混乱などはなく1-1の引き分けに終わった。 2005年1月のダービーではSSラツィオのパオロ・ディ・カーニオがウルトラスに対してナチス風の敬礼を行い、1万ユーロ(約140万円)の罰金を科された[4]。2005-06シーズンにはASローマがこのダービーでリーグ戦のクラブ最多連勝記録(11連勝)を更新し、2009-10シーズンにはやはりこのダービーでリーグ戦のクラブ最多連続無敗記録(24戦)を達成している[2]。2009年12月のダービーでは発煙筒がグラウンド上に投げ込まれたため、試合開始の13分後に主審が試合を7分余り中断した[7]。2011年10月16日に行われたダービーではSSラツィオサポーターがドイツ語で「Klose Mit Uns」(クローゼは我らとともに)と記した旗を掲げたが、この旗はナチス親衛隊の旗と酷似しており、ファシズムを象徴していると指摘された[8]。2013年4月8日、ダービーの前日にローマ市内で両クラブのサポーターや警官らが衝突し、計8名が刺傷された[9]。翌日の試合ではローマのフランチェスコ・トッティがリーグ戦のダービーにおける最多得点記録タイ(9点)を記録した[10]。 ASローマの最大得点差勝利は1933-34シーズンに行われた5-0の勝利である。SSラツィオの最大得点差勝利は2006-07シーズンに行われた3-0の勝利である。 試合数勝利引き分け勝利得点
その後
記録と統計
ASローマSSラツィオ ASローマ SSラツィオ
セリエA153546039191151
コッパ・イタリア2010372124
非公式試合[11]156362019
通算188706652232194