デルス・ウザーラ
Дерсу Узала
監督黒澤明
脚本黒澤明
ユーリー・ナギービン
原作ウラジーミル・アルセーニエフ
製作ニコライ・シゾフ
松江陽一
出演者ユーリー・ソローミン
マクシム・ムンズク
音楽イサーク・シュワルツ
撮影中井朝一
ユーリー・ガントマン
フョードル・ドブロヌラーボフ
編集リュドミラ・フェイギノヴァ
製作会社モスフィルム
配給 日本ヘラルド映画
ニューワールド・ピクチャーズ
公開 1975年8月2日
1976年1月5日
上映時間141分
製作国 ソビエト連邦
言語ロシア語
中国語
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『デルス・ウザーラ』(ロシア語: Дерсу Узала、英語: Dersu Uzala)[注 1]は、1975年公開のソ連の映画である。監督は黒澤明、主演はユーリー・ソローミン。カラー、70ミリワイド、141分。1923年に出版されたロシア人探検家ウラジーミル・アルセーニエフによる同名の探検記録『デルス・ウザーラ』[注 2]が原作。第48回アカデミー賞で外国語映画賞を受賞した。 ロシア人探検家(作者)のアルセーニエフは、当時ロシアにとって地図上の空白地帯だったシホテ・アリン地方の地図製作の命を政府から受け、探検隊を率いることとなった。先住民ゴリド(現ロシア名:ナナイ)族の猟師デルス・ウザーラが、ガイドとして彼らに同行することになる。シベリアの広大な風景を背景に、2人の交流を描く。
ストーリー
キャスト
アルセーニエフ - ユーリー・ソローミン
デルス・ウザーラ - マクシーム・ムンズーク
本作の原作ウラジーミル・アルセーニエフ「デルス・ウザーラ」は、探検家アルセーニエフが先住民のデルスウ・ウザーラを伴って沿海地方を探検したときの記録で、黒澤明がこれを初めて読んだのは戦前の助監督時代のときである[1]。デルスウの生き方に感銘を受けた黒澤は、その時から映画化を考えるようになった。『白痴』(1951年)を完成させたあと、久板栄二郎と北海道を舞台に置き換えた「蝦夷探検記」という脚本を書いたが、脚本に満足いかず、映画化には至らなかった[1][2]。
1971年7月、黒澤は『どですかでん』(1970年)の招待出品のためモスクワ国際映画祭に出席し、その際にソ連映画人同盟書記長のレフ・クリジャーノフ
(ロシア語版)や映画監督のセルゲイ・ゲラーシモフ(ロシア語版)、グリゴーリ・コージンツェフらと日ソ映画交流の意見交換をする中で、ソ連での映画製作の話が持ち出された[3]。そこでドストエフスキー原作の『死の家の記録』、ゴーゴリ原作の『タラス・ブーリバ』の映画化を希望するが、既にセルゲイ・ボンダルチュクが企画しており、また前者のドストエフスキーは、複雑な作品で映画化は無理だということになり、代わりに『デルス・ウザーラ』を映画化することになった[4]。1973年1月、黒澤は松江陽一と共に製作準備のためモスクワに向かい、ソ連側と製作に関する会談を行った[3]。同年3月14日、黒澤はモスフィルムと製作協定に調印した[1]。協定では「黒澤の芸術上・創造上の意見を100%尊重し、ソ連側がすべての生産的・技術的・行政的手段を完全に保証すること」が合意され、「日本側とソ連側が『デルスウ・ウザーラ』という高度な芸術的作品を製作することを助成し、これが日ソ文化交流に大きな意義のある貢献をすること」を声明した[3]。シナリオは黒澤とユーリー・ナギービン(ロシア語版)が共同執筆した。2人の間にはシナリオの基本的見解に相違がみられたが、協定の通り創造上の最終決定は黒澤の意見によるため、ソローミンは黒澤の案を了承し、10月26日に決定稿が完成した[3]。 本作はモスフィルムの製作であるため、本来はスタッフもすべてソ連側から出るが、それでは黒澤に必要以上の負担がかかるため、黒澤の演出意図を細部にわたり的確に伝えるという目的で、数人の日本側スタッフの参加が認められた[3]。参加したのは松江と撮影の中井朝一、協力監督の河崎保と野上照代、演出助手の箕島紀男である[1]。このうち河崎はソ連側の要請だったが、ソ連側の事情で途中降板した[1]。日本側の製作窓口は、松江の製作会社アトリエ41が担当した[1]。 当初、デルス役に三船敏郎を予定し、三船も1973年にモスクワ国際映画祭の審査員に招聘されたときに製作準備中の黒澤を表敬訪問し、日程調整してやる気になっていたが、2年間を予定する撮影期間では調整が付かなかった[1]。デルス役は現地で探すことになり、舞台俳優のマクシム・ムンズクが演じることになった。マクシムは実生活もデルスのように狩りや釣りが好きで、黒澤のイメージにぴったりな人物だった[4]。一方、アルセーニエフ役は有名俳優のユーリー・ソローミンが演じることになった。 1974年5月27日、本作の撮影が開始した[5]。撮影拠点となる沿海地方の都市アルセーニエフの周辺でロケが行われ、モスフィルムに所属する軍隊が護衛についた[6][7]。
スタッフとキャスト
撮影