デルスウ・ウザーラ_(書籍)
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Дерсу Узала 初版の表紙
著者ウラジーミル・アルセーニエフ
ソヴィエト連邦
言語ロシア語
題材北東アジア
ジャンル紀行
出版日1922年

『デルスウ・ウザーラ』(ロシア語: Дерсу? Узала?)は、ロシアの探検家ウラジーミル・アルセーニエフ(1872年 - 1930年)が1922年に著した紀行。デルスー・ウザーラ、デルス・ウザラ、デルス・ウザラーなどの日本語表記もある。書名は著者に同行したナナイ族の猟師の名前である。沿海州と呼ばれる北東アジアの探検を通して、デルスウの経験豊富な技術や自然観、著者との交流、自然とそこに暮らす生物が描かれている。当初は極東でのみ出版されたが、のちにロシア全土で広く読まれるようになった[1]。本項目では、デルスウが登場する前日譚にあたる『ウスリー地方探検記』(1921年)についても記述する。

当時、沿海州はアムール川ウスリー川の流域の他は調査が進んでおらず、山岳地帯はロシアにとって未踏の土地だった。著者のアルセーニエフは1900年代から約30年をかけて沿海州を調査し、地理や動植物、民族について記録を残した。本書もその1つにあたる[2]

1940年代以降には日本語に翻訳され、黒澤明監督の映画『デルス・ウザーラ』(1975年)の原作にもなった。なお、黒澤監督の映画版は本書の他に、デルスウとアルセーニエフの出会いが書かれた『ウスリー地方探検記』の内容も含んでいる[3]
時代背景・著者
歴史・地理17世紀から19世紀にかけての清露国境の変化

アムール川の流域に住んでいたナナイ、ニヴフウリチなどの先住民は、16世紀に、17世紀にロシア帝国の進出を受け、清露国境紛争に巻き込まれた。先住民は当初はロシアに抵抗したが、18世紀からはニヴフを中心にロシア人と交易を行い、清を君主として朝貢をした[注釈 1]。産業革命後の19世紀以降のロシアは、鉱物資源を得るためにシベリアや極東への領土拡大を積極的に進めた。そのため毛皮をとる狩猟民との取り引きに代わり、移民による農地、工場、鉱山の開発が増えた。人口が逆転して先住民は少数民族になり、キリスト教徒ではない先住民は宗教や文化の面からロシア移民に差別された[5]

ロシア帝国は1840年代からアムール川流域の探検を進め、清と条約改正を交渉した。1860年の北京条約では沿海州がロシア領となり、海鼠衛と呼ばれていた集落はロシア名のウラジオストックとなった。極東ロシアへの移住と開発を進めるためにシベリア鉄道が建設され、ヨーロッパ・ロシアからの移民が増えた[注釈 2]。鉄道工事にともなって中国、朝鮮、日本からも出稼ぎ者が多く訪れ、ウラジオストックは多民族構成の都市として拡大した。1884年時点のウラジオストックは、全人口10094人のうちヨーロッパ系が6309人、アジア系が3785人だった[注釈 3][8]

先住民は土地所有権を認められず、交易の権益も縮小してゆき、未開の集団として扱われた[注釈 4]。人類学者や民族学者が調査に訪れ、レフ・シュテルンベルクブロニスワフ・ピウスツキらは、当時の社会運動ナロードニキの思想にもとづいて先住民の支援を試みた[注釈 5][11]。地理学者のニコライ・ミハイロヴィチ・プルジェヴァリスキーはロシア人として沿海州を初めて調査し、1867年から1869年にかけての記録を『ウスリー地方における旅』(1870年)という本にまとめた[12]
著者著者アルセーニエフ

アルセーニエフは、ロシア帝国軍の士官学校で地理学者のミハイル・グルム=グルジマイロの教えを受け、大きな影響を受けた[注釈 6]。グルム=グルジマイロは、プルジェヴァリスキーらの著作をアルセーニエフに教えた。アルセーニエフはプルジェヴァリスキーの『ウスリー地方における旅』を愛読書として、ウスリー地方への憧れを持つようになる。ポーランドに駐屯していた時期には、遼東半島やアムール管区への転属を求める嘆願書を提出した[12]

アルセーニエフの願いは叶い、1899年8月にウラジオストックに配属された。アルセーニエフは銃を持って自然の中をよく歩き、中国語の勉強にも励んでいたので、それを見た連隊長が彼を義勇兵部隊の隊長に任命した[注釈 7]。義勇兵部隊は、平時は山谷で狩猟をして、戦時には偵察や道案内をすることが任務だった[15][16]
1902年の探検

アルセーニエフは義勇兵部隊に編入されたのちに、地理学的・軍事的な目的で沿海州の調査を開始した。1902年の探検では、ウスリー湾を北上し、沿海州南部のハンカ湖からテルネイ湾にかけての調査を計画した[17]。隊は兵士6名と馬4頭の編成で出発し、レフ川(現イリスタヤ川)のほとりで野営をした際に、狩猟者の訪問を受けた。彼はゴリド人[注釈 8]デルスウ・ウザーラと名乗り、アルセーニエフに自分の暮らしを語った。家は持たず野外で寝起きし、冬は樹皮で仮小屋を作る。父親から受け継いだベルダン銃を使い、必需品は狩りで稼ぎ、中国人からタバコや弾丸、火薬を得ていた。53歳で、家族は天然痘で亡くしていた[19]

アルセーニエフはデルスウに関心を持ち、彼に道案内を頼んだ[20]。デルスウは案内人としてアルセーニエフを助け、2人がハンカ湖の湿原で猛吹雪にあった時には、小島に生える草を使って即席のテントを作り、命の危険を脱した[21]。アルセーニエフは友人としてデルスウと交流を深め、ウラジオストックで暮らすことを提案する。しかしデルスウは町ではすることがないと断り、アルセーニエフは惜しみつつ別れた[22]
1906年の探検

アルセーニエフは1903年にウラジオストック要塞騎馬狩猟隊の隊長となり、日露戦争後はハバロフスクに転属となった。ロシアでは日露戦争の影響で極東への関心が高まり、ロシア地理学協会は沿海州の長期間調査を計画した[注釈 9]。アルセーニエフがハバロフスクに転属となったのも、地理学協会のアムール支部があるためだった[15][24]


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