この項目では、インドの都市について説明しています。北アイルランドの都市については「ロンドンデリー」を、その他の用法については「デリー (曖昧さ回避)」をご覧ください。
デリー
??????
Delhi
連邦直轄領
デリー首都直轄領
????????? ??????? ??????? ??????
National Capital Territory of Delhi
デリーの名所。上左よりロータス寺院、インド門、フマーユーン廟、コンノート・プレイス、アークシャルダーム寺院
デリー首都直轄領(デリーしゅとちょっかつりょう、ヒンディー語: ?????? [d??lli?]、英語: National Capital Territory of Delhi)は、インドの首都[注 1] 。8つの連邦直轄領のひとつ。面積1,483 km2、人口は約1679万人で、インド北部の大都市圏を形成しており、同国の商業・工業・政治の中心地にして南アジアを代表する世界都市の一つ。
都市の概説ニューデリー行政区にあるコンノートプレイスのスカイライン
デリー首都圏を構成し、ニューデリーとオールドデリーに分けられる。ニューデリーの中にはニューデリー行政区があり、ここに連邦の首都機能がある。古くは現在のオールドデリーだけの町であったが、イギリス統治下の新しい首府としてニューデリーが建設された。イギリスの設計と建設による新都市部分をニューデリーと呼び、古くからある町をオールドデリーと呼んでいる。2019年の近郊を含む都市圏人口はおよそ2850万人であり、世界第3位の巨大な大都市圏を形成している。デリー首都圏の2014年の都市GDPは2936億ドルであり、世界第36位である[3]。
デリー首都圏の行政機構改革により2002年以降に発行された『世界の国一覧表』(編集発行・世界の動き社、編集協力・外務省)においてはインドの首都が「ニューデリー」から「デリー」に修正され、この変更が文部科学省の学習指導要領にも反映されているため日本の教育現場ではインドの首都は「デリー」と指導されるようになった[4][5]。ただし日本の外務省のサイト[6]、インド政府の公式サイト[7]、国連の地名標準記法一覧表では[8]、 ⇒首都は「ニューデリー」と表記されている。
デリー連邦直轄地とニューデリーの関係は、日本で言えば東京都とその1区域である千代田区のような関係に当たるが、ニューデリーの行政は後述のように都市圏の大部分を管轄するデリー市行政自治体(MCD)でなくインド政府の直轄組織として置かれているニューデリー市行政委員会(NDMC)の管轄下にあり、大都市の内部で独立した行政組織を持つ点はグレーター・ロンドンとシティ・オブ・ロンドンに近い構造とも言える。
歴史
建設からデリー・スルターン朝クトゥブ・ミナール
デリーは12世紀以降各王朝の首都がおかれてきたが、その位置は王朝によって異なる。おおまかに東をヤムナー川、西を岩石の丘陵地、南を点在する丘陵に囲まれた三角形の地域(デリー三角地)に、各王朝がそれぞれ新王都を建設したからである。現在のオールド・デリーはムガル帝国中期に建設された市街地である。
チャウハーン朝のプリトヴィーラージ3世によってこの地に最初に都市がつくられたのは12世紀である。当時のデリーはデリー三角地の南西端にあたるラール・コートであった。デリーはプリトヴィーラージ3世の時代に繁栄を迎えるも、1192年にはゴール朝の将軍であったクトゥブッディーン・アイバクの率いるイスラム教徒に征服され、プリトヴィーラージは死亡して、以後デリーは800年以上にわたるイスラーム支配のもとにおかれることとなった。アイバクは征服したデリーを北インドにおける拠点と位置づけ、ラール・コートの跡にクトゥブ・ミナールの建設をおこなうなど市内の整備を行った。
1206年にゴール朝の君主であるシハーブッディーン・ムハンマドが死去し、後継者争いによってゴール朝が解体に向かうとアイバクは奴隷王朝を建国して独立し、以後1290年までの奴隷王朝、ハルジー朝(1290年 - 1320年)、トゥグルク朝(1320年 - 1414年)、サイイド朝(1414年 - 1451年)、ローディー朝 (1451年 - 1526年)と、1526年までの間デリーに首都を置いた5つの王朝が相次いで興亡を繰り返した。この5王朝は、総称してデリー・スルターン朝と呼ばれる。この時代、1398年にはティムール帝国のティムールによって征服、破壊されるなどしたものの、デリーには常に首都がおかれ、北インドの要衝として発展した。また、これらの王朝はすべてイスラーム王朝であり、のちのムガル帝国期も含めて、デリーはインドにおけるムスリム文化の中心地として重きをなした。
奴隷王朝期には首都はラール・コートにおかれていたものの、ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーは1303年にラール・コートの北東にあたるシーリーに新たに城塞都市を建設し、ここを根拠地とした。しかしハルジー朝は間もなく滅亡し、これを継いだトゥグルク朝のギヤースッディーン・トゥグルクは1321年、ラール・コートの東、シーリーの南東にトゥグルカーバードという新城塞都市を建設してここを根拠地とした。その息子のムハンマド・ビン・トゥグルクは1327年にラール・コートとシーリーをつなぐ大城塞都市の建設を企図し、ここをジャハーン・パナーと名づけたものの、経済の混乱によって計画は未完に終わった。