デラウェア
市
Delaware
デラウェア中心街
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯40度17分56秒 西経83度4分19秒 / 北緯40.29889度 西経83.07194度 / 40.29889; -83.07194
デラウェア(英: Delaware[3])は、アメリカ合衆国オハイオ州の都市。デラウェア郡の郡庁所在地である[4]。人口は4万1302人(2020年)。州都コロンバスの北40キロメートルに位置しており、コロンバス都市圏に含まれる。
1808年に設立され、1816年に法人化された。 デラウェア市とデラウェア郡は、デラウェア族インディアンからその名前が採られた[5]。デラウェア市の町自体はプラギーのタウンと呼ばれたミンゴー族の集落に設立された。記録に残る最初の開拓者は1807年のジョセフ・バーバーだった。デラウェア歴史協会に拠れば、他の開拓者が地域への入植を始めた直後に、モーゼス・バイクスビー、ウィリアム・リトル、ソロモン・スミス、エルダーのジェイコブ・ドレイク、トマス・バトラー、アイラ・カーペンターが町造りを始めた。1808年、モーゼス・バイクスビーがウィリアム通り沿いに最初の木組み家屋を建設した[6]。1808年3月11日、町の計画が申請され、これが町の公式設立日になった。バイクスビー達は当初川の東岸に町の計画を作ったが、最初の計画が申請されてから数日後には西岸に造る計画に変更した。 デラウェアの町は1812年時点でもまだ小さな町だったが、オハイオ州の州都がチリコシーから移されることになり、デラウェアとコロンバスが新州都の候補になった。結局1票差でコロンバスに決まった[7]。しかし米英戦争(1812年-1815年)の後、多くの開拓者がデラウェアに入るようになった。初期開拓者の中には、第19代アメリカ合衆国大統領ラザフォード・ヘイズの両親もいた。ヘイズの家は残っていないが、BP駅の前に立つ歴史標識がその場所を示している。第19代アメリカ合衆国大統領ラザフォード・ヘイズの家 町の歴史の初期に、ジョセフ・バーバーの小屋の北西で硫黄泉が発見された。1833年までにこの泉の近くに健康温泉としてホテルが建設された。しかし、そのマンション・ハウス・ホテルは失敗であり、1841年までに市民がそのホテルの資産を買収する資金を集め始め、メソジスト教会のオハイオ・アンド・ノースオハイオ・メソジスト・エピスコパル会議に渡して、メソジスト・カレッジにするつもりだった。その延長で1844年にオハイオ・ウェスリアン大学が設立された[8]。 1851年4月、クリーブランド・コロンバス・アンド・シンシナティ鉄道が開通し、デラウェアに停車駅ができた。1890年代後半までに他にも鉄道が追加され、国内の主要都市や市場へのアクセスが可能になった。20世紀への変わり目、市内には路面電車が走っていた。1930年代初期、コロンバス・デラウェア・アンド・マリオン鉄道により、都市間電車が走っていた。 南北戦争のとき、市内には北軍の訓練キャンプがあった。最初は川の西岸でオハイオ第96および第121歩兵連隊の白人新兵が集められ、軍務に付けられた。次にやはり西岸で、オハイオ州で入隊したアフリカ系アメリカ人を、オハイオ第127志願歩兵連隊とし、後にアメリカ合衆国第5有色人連隊と改名した[9]。 デラウェア市は北緯40度17分56秒 西経83度4分19秒 / 北緯40.29889度 西経83.07194度 / 40.29889; -83.07194 オハイオ州の州都コロンバス市からは、アメリカ国道23号線で真北に約24マイル (38 km) の位置にある。 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、市域全面積は19.07平方マイル (49.39 km2)であり、このうち陸地18.95平方マイル (49.08 km2)、水域は0.12平方マイル (0.31 km2)で水域率は0.63%である[1]。 人口推移 以下は2010年の国勢調査による人口統計データである[15]。 基礎データ 人種別人口構成 年齢別人口構成 世帯と家族(対世帯数) 基礎データ 人種別人口構成
歴史
南北戦争
地理
人口動態
年人口%±
1810
1820
1830
184089870.4%
18502,074131.0%
18603,88987.5%
18705,64145.1%
18806,89422.2%
18908,22419.3%
19007,940?3.5%
19109,07614.3%
19208,756?3.5%
19308,675?0.9%
19408,9443.1%
195011,80432.0%
196013,28212.5%
197015,00813.0%
198018,78025.1%
199020,0306.7%
200025,24326.0%
201034,75337.7%
2012(推計)35,9253.4%
Sources:[11][12][13][14]
2010年国勢調査
人口: 34,753 人
世帯数: 13,253 世帯
家族数: 8,579 家族
人口密度: 708.1人/km2(1,833.9人/mi2)
住居数: 14,192 軒
住居密度: 289.2軒/km2(748.9軒/mi2)
白人: 90.6%
アフリカン・アメリカン: 4.5%
ネイティブ・アメリカン: 0.2%
アジア人: 1.4%
その他の人種: 0.8%
混血: 2.5%
ヒスパニック・ラテン系: 2.5%
18歳未満: 25.5%
18-24歳: 11.8%
25-44歳: 30.5%
45-64歳: 21.1%
65歳以上: 11.1%
年齢の中央値: 33歳
性比(女性100人あたり男性の人口)
総人口: 92.3
18歳未満の子供がいる: 35.9%
結婚・同居している夫婦: 48.7%
未婚・離婚・死別女性が世帯主: 11.7%
非家族世帯: 35.3%
単身世帯: 28.4%
65歳以上の老人1人暮らし: 9.4%
平均構成人数
世帯: 2.47人
家族: 3.04人
2000年国勢調査
人口: 25,243 人
世帯数: 9,520 世帯
家族数: 6,359 家族
人口密度: 649.8人/km2(1,682.9 人/mi2)
住居数: 10,208 軒
住居密度: 262.8軒/km2(680.5 軒/mi2)
白人: 92.8%
アフリカン・アメリカン: 3.8%