デューク・エイセス
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デューク・エイセス(英語:Duke Aces)は、1955年から2017年の62年間活動した、男性4人の日本の重唱団(コーラスグループ)の一つ。
概要

黒人霊歌「にほんのうた」シリーズなどをレパートリーとしているほか、ジャズコーラスグループとしても活動。また、同じメンバー構成のコーラスグループである、ボニージャックスダークダックスとは共同でショーの開催もしていた。デューク・エイセスという名前の由来は選りすぐられた公爵という意味。また、「デューク・エイセス」ではなく、「デュークエイセス」の表記も見られる。
解散

2017年5月に年内をもって解散を発表し[1][2]、12月13日NHKごごナマに出演。これが最後のテレビ生出演となり、そして12月21日に東京・メルパルクホール(メルパルク東京)でのラストコンサートを行い解散。62年の活動に幕を降ろした[3]
メンバー

立ち位置は、ダークダックス同様、向かって左から右に高音→低音となっている。
解散時のメンバー

高音→低音の順。

大須賀ひでき(おおすが ひでき、1956年11月30日 - )。現在67歳。東京都新宿区出身。血液型 B型。干支 申年。星座 射手座。愛称 ヒデキ。トップ・テナー。立ち位置は一番左。2009年7月、病に倒れた飯野知彦の代役として加入し、その後正式メンバーとして加入。

岩田元(いわた げん、1969年10月31日 - )。現在54歳。東京都出身。血液型 O型。干支 酉年。星座 さそり座。愛称 ゲンチャン。セカンド・テナー。立ち位置は左から2番目。脳梗塞で倒れた吉田一彦の代役を務めてきたが、吉田一彦が引退を表明したため、2015年3月に正式メンバーとして加入[4]。岩田元がスケジュールのため、吉田一彦の代役として、デューク・エイセスに参加できない場合は、大須賀ひできとミュージカルで共演した小西のりゆきが吉田一彦、岩田元の代役を務めた。

谷道夫(たに みちお、1934年11月8日 - )。現在89歳。宮崎県出身。宮崎県立宮崎大宮高等学校卒業[5]。血液型 O型。干支 戌年。星座 さそり座。愛称 ミーチャン。ベース→バリトン。立ち位置は右から2番目。結成当時からのメンバーで、槇野義孝の加入以前はベースを担当。1960年からは和田昭治に代わり、リーダーを務める。現在コーラス教室の講師も行っている。祖父の桑原節次は、1934年制定の初代『宮崎県民歌』(作曲:古関裕而)を作詞した[6]

槇野義孝(まきの よしたか、1936年2月24日 - )。現在88歳。新潟県新潟市出身。血液型は、A型。干支 子年。星座 魚座。愛称 トノサン。立ち位置は一番右。明治大学工学部卒業。担当パートは、ベース。1958年、大屋剛人の後任として加入したが、キーの関係上、ベース。1972年頃まで名字が「真木野」表記だった[注釈 1]。万年筆、車の愛好家であり、その方面で著名である。ダジャレ好き。また写真家の濱谷浩は叔父にあたり、『「にほんのうた」シリーズ』のレコードジャケットの写真を担当した。ダークダックスのゾウさんこと、遠山一、ボニージャックスの のぼさんこと、玉田元康に田代美代子という組みあわせで「三大テノール」(ルチアーノ・パヴァロッティプラシド・ドミンゴホセ・カレーラス)ならぬ「三大バス」ツアーという形式でコンサートを行うこともある。

解散前に脱退したメンバー

和田昭治(わだ しょうじ、
1928年5月8日 - 2014年4月19日)セカンド・テナー。ただし、トップ・テナーと誤表記されている物もある。東京都出身。干支 辰年。星座 牡牛座。1955年にデューク・エイセスを結成し約6年間リーダーとして活躍した後、作曲家に転進し、数々のCMソングを世に残す。「サントリーレッド」「トリスビール」「湖池屋ポテトチップス」「バネットライオン」など、その数は約800曲に上る。また中村八大とともにNHK総合テレビジョンの若者向け音楽番組『ステージ101』の音楽監督を番組放送開始の1970年1月から1972年4月まで務め、レギュラー出演グループであるヤング101の歌唱指導を行って「ワンツーおじさん」の愛称で準レギュラー出演した[注釈 2][注釈 3]。晩年は都内でボイストレーナーとして指導していた。指導したグループや門下生はジャッキー吉川とブルーコメッツザ・ワンダースダウン・タウン・ブギウギ・バンド少年隊をはじめ数知れず、日本のポピュラーソング界に大きな足跡を残した。離脱後もデューク・エイセスOBとしてコンサートにゲスト出演したことがあり、その際には喝采を浴びた。後任は小保方淳。リーダーの後任は谷道夫。2014年死去。享年85。

川上道夫(かわかみ みちお)。担当パートは、トップ・テナー。東京都出身。デューク・エイセス結成時のメンバー。デューク・エイセス以前は「ジャズのど自慢」に常勝出場者として出演していたセミプロ。進駐軍巡りのハードスケジュールがたたってのどを壊し、1957年に離脱。後任は吉田一彦。

大屋剛人(おおや のりと)。担当パートは、バリトン。東京都出身。川上道夫同様、デューク・エイセス以前はジャズのど自慢常勝出演のセミプロ。芸能界引退(その後平凡社に入社)のため、1958年に離脱。後任は槇野義孝だが槇野義孝のキーの関係などから、それまで大屋剛人のパートだったバリトンを谷道夫が担当することとなった。

小保方淳(おぼかた じゅん)。セカンド・テナー→トップ・テナー。加入当初はセカンド・テナーだったが、のちに吉田一彦とパートを交代し、トップ・テナーになる。愛称 ピノキオ。ロイヤルナイツを経て、和田昭治の後任として加入。本人の加入後、「おさななじみ」などの歌謡曲のヒットでデューク・エイセスの人気は高まりはじめる。甘い美声で人気を博し、多くのレコーディングにも参加したが、方向性の違いからデューク・エイセスを円満離脱、谷口安正と交代する。脱退後はボーカル・ショップに参加[8]。ボーカル・ショップ解散後はソロ活動を行っている。後任は谷口安正。

谷口安正(たにぐち やすまさ、1939年6月28日 - 1990年12月31日)。長崎県諫早市出身。血液型 B型。干支 卯年。星座 かに座。愛称 ヤスボウ。立ち位置は一番左。青山学院大学英文学科卒業。トップ・テナー。在学中はグリーンハーモニー合唱団指揮者としても活躍するなど、すでに音楽関係者の間では名が知れわたっていた。卒業直前にパーティーで競演したデューク・エイセスから乞われるかたちで学校卒業後の1964年5月に加入。加入の際には当時デューク・エイセスがレギュラー出演していた「夢であいましょう」にて、デューク・エイセスの持ち歌である黒人霊歌を1番を小保方淳、2番を谷口安正が歌うというかたちでメンバー変更を全国に知らせた。四半世紀にわたりトップ・テナーを担当し、デューク・エイセスの黄金時代を支えた。1990年、35周年コンサートも盛況のうちに終了ののち、同年12月に自宅で脳出血で倒れ、手当のかいなく急逝、満51歳。後任は飯野知彦。

飯野知彦(いいの ともひこ、1953年5月6日 - 2009年11月20日)。群馬県前橋市出身。血液型 O型。干支 巳年。星座 牡牛座。愛称 トモさん。東京芸術大学卒業。トップ・テナー。立ち位置は一番左。脳出血で倒れた谷口安正の急逝により、以前より縁があったデューク・エイセスから後任の打診を受け、イタリアミラノ留学を中断し帰国。1991年加入。2008年に胃がんが発覚し治療を受け回復するものの、2009年1月に転移が発覚。通院治療を行いながら活動したが、同年6月15日に自宅で倒れて入院以来約1か月意識不明の状態に陥っていた。早期の復帰が困難とみられることから、事務所および家族が話し合い、55周年目前にグループを一旦離脱というかたちになった。意識回復後はリハビリに取り組むなど、復帰を目指したが願いは叶わなかった。2009年11月20日胃がんのため死去、享年56。後任は大須賀ひでき。5月21日に大阪厚生年金会館で行われた「BS日本・こころの歌」(BS日テレ)の公開収録が最終出演。

吉田一彦(よしだ かずひこ、1936年1月25日 - 2020年2月9日)。大阪府八尾市出身。血液型 O型。干支 子年。星座 水がめ座。


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