紋章地図
基本情報
連邦州:ノルトライン=ヴェストファーレン州
行政管区:デュッセルドルフ行政管区
地域連合:ラインラント地域連合
デュッセルドルフ(独: Dusseldorf[注釈 1])は、ドイツ連邦共和国の都市でノルトライン=ヴェストファーレン州の州都[2]。人口は約63万人(2022年時点)。
概要ケーニヒスアレー
ライン川河畔に位置し、ライン・ルール大都市圏地域の中心でルール工業地帯のすぐ南西部にある。金融やファッション、世界的な見本市の中心都市の一つである[3][4][5]。また西ヨーロッパの中でもブルーバナナと呼ばれる、経済的にも人口的にもとくに発展した地域内に位置し、市内にはフォーチュン・グローバル500に含まれる5社や、いくつかのDAXに含まれている企業が本社を置いている。日本企業の進出も盛んで、デュッセルドルフ市内には約5,000人の日本人の駐在員やその家族などが居住し、日本総領事館などのあるインマーマン通りは日本人街の様相を呈している[6]。1971年にはデュッセルドルフ日本人学校も開校し、1990年前後には生徒数1000名近くにまで達した。2011年に行われたマーサー・ヒューマン・リソース・コンサルティングによる世界で最も居住に適した都市の調査では世界では5位、ドイツ国内では2位につけている[7][8]。
デュッセルドルフは経済的な中心としてだけではなく、芸術的な分野でも知られた都市で、デュッセルドルフ芸術アカデミーからはヨーゼフ・ボイスやアウグスト・マッケ、ゲルハルト・リヒター、ジグマー・ポルケ、アンドレアス・グルスキーといった画家や写真家などの芸術家を輩出している。電子音楽の先駆者で影響を与えたクラフトワークも、デュッセルドルフを起点としている。デュッセルドルフはカーニバルの開催都市としても知られている。また、毎年7月にはGroste Kirmes am Rhein (en) が開催され、450万人以上の人々が市内を訪れる[9]。 デュッセルドルフは低ライン
地理
歴史1647年頃のデュッセルドルフ旧市街の歴史的な市庁舎
ローマ帝国がヨーロッパ全土で力を強固にしていたころ、少数のゲルマン人の部族はライン川東岸の沼地の領地を手放そうとしなかった[10]。7世紀や8世紀の農業や漁業の集落の断片が小さな川であるデュッセル川(英語版)がライン川へと流れ込む地点で見ることが出来る。デュッセルドルフの街が発展するのはそのような集落からであった。
デュッセルドルフの街(当時は地元のムーズ・ライン方言(英語版)でデュッセルドルプ Dusseldorp)の最初の記録は1135年に遡る。都市名は、「デュッセル川のほとりの村」を意味し、1065年に>Tussale<と記されたその川の名前は、現在のドイツ語で>rauschendes Wasser<(「サラサラと流れる水」)ほどの意味である[11]。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の下、デュッセルドルフ北部のカイザースヴェルト(英語版)の小さな町はよく要塞化された駐屯地になり、兵士たちはライン川上の全ての動きを監視していた。1929年にカイザースヴェルトはデュッセルドルフの郊外になっている。1186年にデュッセルドルフはベルク伯領の治世下となる。
1288年8月14日はデュッセルドルフの歴史にとっては最も重要な日の一つで、川に面したデュッセルの村は都市特権を得た。布告に先立って、血なまぐさい権力争いがケルン大司教領とベルク公国の間で起こりヴォリンゲンの戦い(英語版)でピークに達する。ケルン大司教領の軍勢はケルンやデュッセルドルフの市民や農民の支持を受けたベルク公国の軍勢により退けられ、このことはデュッセルドルフの都市への昇格の道を固め、今日ではブルク広場にあるモニュメントによって記念されている。この戦いの後、商業的なライバルとして都市間の関係は悪化した。しばしば、ケルンとデュッセルドルフの市民の間には対抗心のようなものがあると言われている。今日、この表現は主にユーモアのある特にラインラントのカーニバルやスポーツの中で現れている。市場広場(英語版)がライン川河畔に現れ、広場は市壁により四方が保護されていた。1380年、ベルク公ヴィルヘルム1世はその中心を移し、デュッセルドルフはベルク公国の首都となった。
その後の数世紀の間に、協同教会(英語版)のランベルトゥス教会などいくつかの有名なランドマークが建てられた。1609年にユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国の最後の公爵ヨハン・ヴィルヘルムが死去すると継承争いが続き、ユーリヒとベルクはヴィッテルスバッハ家のプファルツ=ノイブルク公に渡った。デュッセルドルフはその居城となり、1685年にはプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムがプファルツ選帝侯位も獲得している。ヨハン・ヴィルヘルム選帝侯(1690年 - 1716年)の下での18世紀のデュッセルドルフの成長は著しいものであった。妃であったアンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチの強い影響により、絵画や彫刻など莫大なコレクションがシュタットシュロス(Stadtschloss)に収蔵されている。
子供がないままヨハン・ヴィルヘルムが死去すると、デュッセルドルフの繁栄はかげりを見せ始める。カール・テオドールはバイエルン選帝侯を継承し、選帝侯の宮廷はミュンヘンに移った。