デビッド・ロイド・ジョージ
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イギリス政治家デビッド・ロイド・ジョージDavid Lloyd George, 1st Earl Lloyd-George

生年月日1863年1月17日
出生地 イギリス
イングランドマンチェスター
没年月日 (1945-03-26) 1945年3月26日(82歳没)
死没地 イギリス
ウェールズ・スラナスティムドゥイ(英語版)
出身校スラナスティムドゥイの小学校
前職弁護士
所属政党自由党
称号枢密顧問官(PC)
メリット勲章(OM)
初代ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵
配偶者マーガレット(英語版)
フランセス(英語版)
親族初代テンビー子爵(三男)
サイン
首相
在任期間1916年12月6日 - 1922年10月19日[1]
国王ジョージ5世
陸軍大臣
内閣アスキス挙国一致内閣
在任期間1916年7月7日 - 1916年12月5日[2]
軍需大臣(英語版)
内閣アスキス挙国一致内閣
在任期間1915年5月26日 - 1916年7月9日[3]
大蔵大臣
内閣アスキス内閣
在任期間1908年4月12日 - 1915年5月[2]
通商大臣
内閣キャンベル=バナマン内閣
在任期間1905年12月10日 - 1908年4月6日[4]
その他の職歴
庶民院議員
1890年4月10日 - 1945年1月12日[5]
貴族院議員
1945年2月12日 - 1945年3月26日[5]
自由党党首
1926年10月14日 - 1931年11月[6]
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初代ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵デビッド・ロイド・ジョージ(英語: David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of Dwyfor, OM, PC1863年1月17日 - 1945年3月26日)は、イギリス政治家貴族

1890年自由党庶民院議員として政界入りする。1905年以降の自由党政権下で急進派閣僚として社会改良政策に尽くす。彼の主導により、イギリスに老齢年金制度や健康保険制度、失業保険制度が導入された。

第一次世界大戦中の1916年12月に総辞職したアスキス首相に代わって首相に就任。強力な戦争指導体制と総力戦体制を構築し、イギリスを勝利に導いた。パリ講和会議に出席するなど戦後処理も指導し、戦間期ヴェルサイユ体制の構築に大きな役割を果たした。1921年にはアイルランド大英帝国自治領としての独立を認めた(アイルランド自由国)。1922年大連立を組んでいた保守党の離反で総辞職に追い込まれた。

首相退任後は自由党の没落もあって権力から遠ざかっていったが、政治活動は衰えず、ケインズ主義経済政策を確立して公共事業の拡大を訴えた。
概要

1863年イングランドマンチェスターに生まれる。父親はマンチェスターの学校教員で弁護士でもあったが[7]、幼くして父を失い、ウェールズ・スラナスティムドゥイ(英語版)の母方の伯父のもとに身を寄せる。伯父は非国教徒のウェールズ愛国者で自由党を支持する中産階級者だった。ロイド・ジョージもウェールズ民族主義の影響を受けて、国教会保守党・大地主に対する反抗心を培って育った。

小学校卒業後、1878年から弁護士事務所で書生として働く。1884年に弁護士資格を取得し、弁護士事務所を独立開業する。弱者のための弁護活動を多く行い、とりわけ国教会の墓地への非国教徒の埋葬が拒否された事件における非国教徒の弁護活動でウェールズ民族主義者として名を馳せるようになる。

1890年にカーナーヴォン・バラ選挙区(英語版)の補欠選挙に自由党候補として出馬し、庶民院議員に初当選する。議員生活初期の頃は自由党議員としてより、ウェールズ選出の議員として行動することが多く、ウェールズの教会を国教会から独立させることを盛んに訴えた。また地主に打撃を与えることを目的に禁酒運動にも取り組んだ。1899年には老齢年金に関する庶民院特別委員会の委員となり、老齢年金制度導入の提言を行ったが、同年に勃発した第二次ボーア戦争のため実現しなかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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