デビッド・クルサード
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デビッド・クルサード

デビッド・クルタード

デビッド・コールサード

デビッド・コルトハード

デビッド・クルサード
ドイツのサッカーチャリティーマッチにて(2016年7月)
基本情報
フルネームデビッド・マーシャル・クルサード
略称表記COU
国籍 イギリス
スコットランド
出身地同・トゥインホルム
生年月日 (1971-03-27) 1971年3月27日(53歳)
F1での経歴
活動時期1994-2008
過去の所属チーム'94-'95 ウィリアムズ
'96-'04 マクラーレン
'05-'08 レッドブル
出走回数247
タイトル0
優勝回数13
表彰台(3位以内)回数62
通算獲得ポイント535
ポールポジション12
ファステストラップ18
初戦1994年スペインGP
初勝利1995年ポルトガルGP
最終勝利2003年オーストラリアGP
最終戦2008年ブラジルGP
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デビッド・マーシャル・クルサード(David Marshall Coulthard, 1971年3月27日 - )は、イギリススコットランド南西部にあるトゥインホルム生まれのレーシングドライバー。コールサード、クルタード、コルトハード[1]と表記・発音されることもある。ニックネームはDC。
プロフィール
初期の経歴マカオGPでドライブしたラルトRT35

クルサードはトラック輸送を生業とする裕福な家庭に生まれ、幼少時からカートレースをしていた。1989年にはヨーロッパにおけるジュニア・フォーミュラの代表格であるフォーミュラ・フォードに参戦し、その印象的なパフォーマンスにより最初のマクラーレン/オートスポーツ・ヤングドライバー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、その年のチャンピオンマシン、MP4/5のテストドライブの機会を得る。1990年にはフォーミュラ・ヴォクスホール・ロータスに参戦するが、ベルギーのスパ・フランコルシャンにおける事故で足を骨折してしまう。

1991年にはカムバックし、イギリス・フォーミュラ3選手権にポール・スチュワート・レーシングから参戦。ルーベンス・バリチェロとのチャンピオン争いの末ランキング2位となったが、オランダのザントフォールト・サーキットで開催された第1回マスターズF3、ポルトガル領(現在は中華人民共和国領)のマカオ市街地サーキットで行われたマカオGPでは優勝し、英国の優秀な若手レーサーに贈られる「ポール・ワーウィック記念杯」の初代受賞者となる。

1992年には国際F3000に昨年と同様ポール・スチュワート・レーシングから参戦しランキング9位となり、1993年にはパシフィック・レーシングより参戦しランキング3位となった。またこの年、ベネトンウィリアムズのテストに参加した。
F1
ウィリアムズ在籍時代(1994年 - 1995年)1994年イギリスGP

1994年にはウィリアムズのテストドライバーとなる。同年ナンバー1ドライバーのアイルトン・セナ第3戦サンマリノGPで事故死し、その代役としてクルサードが選ばれた。クルサードはデビューレースである第5戦スペインGPから第13戦ポルトガルGPまで(第7戦フランスGPは欠場)の8戦に参戦し、ポルトガルGPでは2位を獲得するなど初年度から活躍した。しかしF1人気低下を懸念していたバーニー・エクレストンやコンストラクターズタイトルを死守したいウィリアムズチーム側の意向により、第7戦フランスGPと第14戦ヨーロッパGP以降のシーズン最終3戦のシートは、1992年ワールドチャンピオンナイジェル・マンセルに譲ることになった。

そのような不安定な環境を嫌い、クルサードはシーズン終盤に1995年のマクラーレン入りを画策する。しかし所属チームのウィリアムズが提訴をし、裁判の末ウィリアムズ残留が決定、1995年もウィリアムズで戦うことになる。シーズン序盤からチームメイトのデイモン・ヒルを凌ぐ速さを見せていた。シーズン後半、第12戦イタリアGPから4戦連続でポールポジションを獲得し速さを見せつけ、第13戦ポルトガルGPでは初優勝を果たしたものの、同時に、イタリアGPでポールポジションからのスタートながらフォーメーションラップでスピンアウト(赤旗再スタートで復活もブレーキトラブルでリタイア)を喫したのをはじめに、第16戦日本GPでのコースオフ後のブレーキングで自分で拾った砂利に乗ってのスピンアウト(サイドポンツーンに入りこんだ砂利が、ブレーキング時に排出)、最終戦オーストラリアGPでのトップ快走中に、ピットレーン進入時のスピードリミッターの不具合が原因でのクラッシュなど、終盤はつまらないミスを立て続けに犯していた。シーズン終了をもってウィリアムズとの契約期間が切れたため、1996年は満を持してマクラーレンに移籍した。
マクラーレン在籍時代(1996年 - 2004年)1998年カナダGP

1996年は第5戦サンマリノGPでは好スタートを決め1回目のピットストップまでトップを快走。結果はリタイアに終わるも、マクラーレンのトップ走行は1994年スペインGPミカ・ハッキネン以来のことであった。1997年の開幕戦オーストラリアGPでチームに4シーズンぶりとなる優勝をもたらし、第14戦イタリアGPでも優勝し、2勝をあげたクルサードは、予選こそハッキネンに負けていたが、決勝ではメカニカルトラブルでリタイアが多いハッキネンをポイントで上回った。

しかし、戦闘力がトップクラスになった1998年から2000年において、ハッキネンが1998年・1999年と連続してタイトルを獲得したのに対し、クルサードの年間成績は3位が2回、4位1回と伸び悩んだ。特に1999年は、MP4-14のリアの不安定で神経質な挙動をクルサードは嫌っていたことから[2]、決勝こそハッキネンにマシントラブルが噴出し、さほどポイント差は開かなかったが、予選でのパフォーマンスはハッキネンに大きく差をつけられた。

2000年、クルサードのシーズン序盤の成績次第では、マクラーレンはサードドライバーのオリビエ・パニスと交代させる思惑を持っていたが[3]、中盤まではポイントランキングのトップを争った。第9戦フランスGPフェラーリミハエル・シューマッハを追い抜き優勝し、チャンピオンシップ争いを繰り広げたが、それ以後は優勝できず、また第14戦イタリアGPで接触リタイア、アメリカGPではフライングスタートを行ったことなどから、チャンピオンシップ争いから脱落し、最終的にはランキング3位に甘んじた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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