デニー友利
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友利 結
デニー友利
横浜DeNAベイスターズ・コーチ時代
(2012年3月18日 横浜スタジアムにて)
基本情報
国籍 日本
出身地沖縄県浦添市
生年月日 (1967-09-21) 1967年9月21日(56歳)
身長
体重191 cm
88 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1986年 ドラフト1位
初出場1987年10月8日
最終出場2007年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


興南高等学校

横浜大洋ホエールズ
横浜ベイスターズ
(1987 - 1996)

西武ライオンズ (1997 - 2002)

横浜ベイスターズ (2003 - 2004)

中日ドラゴンズ (2006 - 2007)

コーチ歴


横浜DeNAベイスターズ (2012 - 2013)

中日ドラゴンズ (2014 - 2017)

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友利 結(ともり ゆい、1967年9月21日 - )は、沖縄県浦添市出身の元プロ野球選手投手、右投右打)・コーチ

現役時代の登録名であるデニー友利としても知られる。
経歴
プロ入り前

1967年に沖縄県で生まれた。小学生の時に野球を始めるが、途中でポジションを変えることなく投手に専念する。興南高等学校進学後は名幸一明(現・NPB公式審判員)とバッテリーを組んだが、絶対的なエースではなく、1年下の西岡洋ら数人と交替で起用される。1985年秋季九州大会県予選決勝に進み、リリーフで登板したが、上原晃を擁する沖縄水産高に惜敗。翌1986年夏の甲子園県予選は、準決勝で宜野座高を相手に先発し勝利、しかし決勝でまたも沖縄水産高に敗退し甲子園出場を逸する。この試合では登板機会がなかった。

1986年度プロ野球ドラフト会議にて横浜大洋ホエールズから1位指名を受けて入団。背番号は30。なお、プロに指名されなければ松下電器野球部に入団予定で、その顔合わせなどで後にチームメイトになる潮崎哲也原井和也とプロ入団前から面識があった[1]
大洋・横浜時代

新人ながら1987年の終盤に初登板・初先発を果たす。プロ入り当初から身体能力の高さや球威を高く評価され、オフにはアリゾナ教育リーグの参加と、パイオニアリーグビュート・カッパーキングスへ野球留学するなど、首脳陣から期待されていたが、制球力の悪さからなかなか芽が出なかった。このため、一時は任意引退の手続きを取って支配下登録を外れた「練習生[注 1]」となったこともあった。

このままでは活躍できないことからチームがホエールズからベイスターズに名称を変更した1993年に投球フォームをサイドスローへ変更したところ、これによって長年指摘され続けていた制球力の悪さが改善され、潜在能力を開花させることになる。

1995年、登録名をデニー友利に変更。9月3日の対中日22回戦では1年5か月ぶりに一軍先発で7回まで無失点と好投。プロ初勝利の権利も持っていたが、8回に同点に追いつかれ初勝利を逃した。10月6日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)では3点リードされた場面の8回に4番手として登板し無失点で抑えると、9回にチームは大逆転したため9年目にして初勝利を挙げた。翌7日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)では3番手として登板して3イニングを無失点で抑え試合を締めくくり、プロ初セーブを挙げた。

1996年、シーズンオフに当時の西武監督東尾修の希望と[2]、本人が登板機会を求めトレード志願したこともあって[1]長見賢司との交換トレードで西武ライオンズへ移籍。登録名はデニーとなった。
西武時代

1997年、同じサイドスローの鹿取義隆潮崎哲也の助言を受けて才能が再び開花し、中継ぎ投手として勝利に貢献。当時監督だった東尾修から「コントロールに自信なんてないだろ。全力で腕を振って投げろ。バッターが怖がるから」と言われたことでピッチングのコツをつかんだという[1]。潮崎が先発に転向、鹿取が怪我が長引き登板できない中、右のサイドスローの中継ぎ枠が空いていたこともあり中継ぎ投手としてチームに欠かせない存在となったデニーは、1998年のリーグ連覇にも大きく貢献した(同年のチーム最多セーブを記録)。同年にはオールスターゲームにも初出場したほか、日本シリーズでは古巣・横浜と対戦。元同僚から声をかけられたり、登板時には横浜ファンからも声援があった。これに応える形で登板した2試合ではいずれも好投。以降も年間平均50試合に登板し、チームの戦力面・精神面での支柱的存在となった。

2002年、チームの選手会長を務めたが、同年は中継ぎ投手陣の不調・酷使にもかかわらずほとんど登板機会がなく、一部ではこの年から監督に就任した伊原春樹や投手コーチの松沼博久との不和が噂された。夏以降は日本シリーズを見据えて調整していたが、日本シリーズの出場有資格リストからも外れた。

2002年オフ、前田和之との交換トレードで古巣・横浜ベイスターズに復帰した。
横浜復帰

2003年、この年から新監督となった山下大輔の構想で、それまでストッパーを務め先発に再コンバートする斎藤隆に代わるストッパーとして期待されたが、登板すれば打たれるの繰り返しで1勝8敗7セーブと結果を残せず、中日からウェイバー公示で移籍してきたエディ・ギャラードにストッパーの座を明け渡す形になり、翌年も全く機能できなかった。2004年には登録名を再びデニー友利へ変更するが、21試合の登板で防御率4.62に終わり、オフにはMLB入りを前提とした自由契約となった。その後、アメリカで自らトライアウトを行い、2005年ボストン・レッドソックスにマイナー契約で入団したものの、メジャーに昇格することはできなかった[注 2]

マイナーリーグで活躍できなかったことから日本に戻り、2006年中日ドラゴンズとの契約が成立。登録名はデニー友利となった。
中日時代

友利の能力を評価して監督の落合博満に獲得を進言したバッテリーチーフコーチの森繁和から「野手でいえば川相のように、若い選手に取り組む姿勢を見せてやってほしい」と期待された。高齢で横浜を自由契約になったものの、最速150km/hの直球を軸にした若々しい投球内容で勝負する。シーズン当初は不安定だったもの、6月14日の対西武ライオンズ戦から徐々に安定感が増し、中日の中継ぎに欠かせない投手となった。チームの優勝に貢献したが、日本シリーズでは登板機会が無かった。

2007年は登録名を再びデニーとした。同年はシーズンの大半をウエスタン・リーグで過ごし、レギュラーシーズン終了前に戦力外通告を受けた。落合の計らいもあって、同年10月4日の本拠地最終戦(対広島東洋カープ戦)が退団試合となり、同年限りでの退団を表明した。


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