デッティンゲン・ウンター・テック
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紋章地図
(郡の位置)

基本情報
連邦州:バーデン=ヴュルテンベルク州
行政管区:シュトゥットガルト行政管区
郡:エスリンゲン郡
市町村連合体:キルヒハイム・ウンター・テック行政共同体
緯度経度:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度36分58秒 東経09度27分06秒 / 北緯48.61611度 東経9.45167度 / 48.61611; 9.45167座標: 北緯48度36分58秒 東経09度27分06秒 / 北緯48.61611度 東経9.45167度 / 48.61611; 9.45167
標高:海抜 352 m
面積:15.13 km2
人口:

6,207人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:410 人/km2
郵便番号:73265
市外局番:07021
ナンバープレート:ES, NT
自治体コード:

08 1 16 016
行政庁舎の住所:Schulstrase 4
73265 Dettingen
ウェブサイト:www.dettingen-teck.de
首長:ライナー・ハウスマン (Rainer Hausmann)
郡内の位置

地図

デッティンゲン・ウンター・テック (ドイツ語: Dettingen unter Teck, [?d?t???n] ( 音声ファイル)[2]) は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト行政管区エスリンゲン郡に属す町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。この町はシュヴェービシェ・アルプの周縁部に位置している。この町はシュトゥットガルト地方(ドイツ語版、英語版)(1992年まではミッテレラー・ネッカー地方)およびシュトゥットガルト大都市圏(ドイツ語版、英語版)に属す。デッティンゲンの町域のわずかな部分(1.44 %) がシュヴェービシェ・アルプ・バイオスフェア(生物圏)の一部となっている。
地理
位置

この町は、シュトゥットガルトの南東約 35 kmのシュヴェービシェ・アルプ北西斜面「アルプトラウト」の、高度 329 m から 420 m に位置している。市域のうち 416 ha(約 27.5 %)が森林である[3]
自治体の構成

自治体としてのデッティンゲン・ウンター・テックには、デッティンゲン・ウンター・テック地区とハウス・リンデンガルテン地区、および離れた集落ブルク・シュロースベルク、ブルク・ボル、ブルク・マンスベルク、ティーフェンバッハ、フォスハウゼンが属している[4]
隣接する市町村

デッティンゲン・ウンター・テックは、北はキルヒハイム・ウンター・テック、東はキルヒハイムのナーベルン地区およびビシンゲン・アン・デア・テック、南はアウエン、南西はボイレン、西はニュルティンゲンと境を接している。
土地利用

2020年現在のこの町の用途別土地面積および占有率は以下の通りである[5]

用途面積 (ha)占有率 (%)
住宅用地815.3
商工業用地382.5
レジャー用地100.7
交通用地845.6
農業用地85756.5
森林41627.5
水域70.5
その他201.3
合計1513100.0

歴史
古代から中世

ラウタータールでは古代からの定住跡が遺されている。ローマ時代の国境防衛施設ラウタータール=リーメス(地元ではジビレンシュプールと呼ばれていた)が谷や集落を通っていた。現在の町の中心部の南にカストラ・デッティンゲン・ウンター・テックがあった。

デッティンゲンは1100年頃に初めて文献に記録されている。デッティンゲン町内には城砦や貴族の館が6つと、非常に多く存在していた。そのいずれもが中世初期に衰退し、現在は遺っていない。デッティンゲン内の領主権の主要部分は地元の領主が所有していた。一方、1381年以降にはヴュルテンベルク家が高権を所有しており、当主の伯が地主として振る舞っていた。1415年には統治者としての権利もヴュルテンベルクのものとなった。アンドレアス・キーザーによって描かれた1683年ころのデッティンゲン・ウンター・テック
近世

1525年頃のドイツ農民戦争には、デッティンゲンのブドウ農家も活発に参加した。三十年戦争でこの村は酷く荒廃し、戦争ペストなどによって人口は 1/3 にまで減少した。17世紀の初めのこの町の人口は約1300人であったが、1654年にはわずか511人になっていた。復興は緩慢で、17世紀末のプファルツ継承戦争によって再び反動がもたらされた。1715年になってもなお160軒の農場が無人のままで、300モルゲンの農地やブドウ畑が放置されていた。1803年にデッティンゲンの人口は約1800人にまで回復した。
1803年から1945年

1806年に建国されたヴュルテンベルク王国の新たな行政機構でデッティンゲンはオーバーアムト・キルヒハイムの管轄下に留まった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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