デイヴィッド1世_(スコットランド王)
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デイヴィッド1世
David I
スコットランド国王

在位1124年 - 1153年

出生1084年

死去1153年5月24日
スコットランド王国、カーライル
埋葬 スコットランド王国、ダンファームリン・アビー
配偶者ハンティンドン女伯モード(英語版)
子女一覧参照
家名アサル家
王朝アサル朝
父親スコットランド王マルカム3世
母親マーガレット
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デイヴィッド1世(David I, 1084年頃 - 1153年5月24日)は、スコットランド(在位:1124年 - 1153年)。マルカム3世と2番目の王妃マーガレットの六男。ダンカン2世の異母弟、エドワード、エドマンドエドガー、エゼルレッド(英語版)、アレグザンダー1世イーディス(マティルダ)、メアリー(英語版)の同母弟に当たる。カトリック教会聖人
生涯

母のお気に入りだったデイヴィッドは兄達と同様イングランドで育ち、ノルマン風の教育を受け、ノルマン人の青年達と親しく交わった。1107年(または1113年1114年とも)に、ノーサンブリア伯・ハンティンドン伯ワルセオフとイングランド王ウィリアム1世の姪ジュディスとの娘で、ヘンリー1世の従姪でもあるハンティンドン女伯モード(英語版)(マティルダ)と結婚した。この結婚でハンティンドンシャー(英語版)・ノーサンプトンシャーケンブリッジシャーベッドフォードシャーといったイングランド中部を領有するイングランド貴族となり、長姉イーディスがヘンリー1世の妃ということでイングランド王家(ノルマン朝)と二重の姻戚関係で結ばれた[1][2]

1112年にヘンリー1世からイングランド北部でスコットランドに近いカンブリアの長官に任命され、カーライルに着任した。この地に住む反抗的なカンブリア人の服従を期待した上での任命で、デイヴィッドはノルマン人の力を借りてカンブリアを抑えたばかりか、スコットランド南西部のギャロウェイ(英語版)も抑えたことで、兄のアレグザンダー1世にも重用されフォース川以南地方長官も兼ねた[3]

イングランド・スコットランド両国の王に仕えながら政治を学ぶ日々を送ったが、1124年に兄が世継ぎを残さずに死去したため、王位を嗣いだ。イングランド育ちだったことから親イングランド政策を採り、イングランド封建制度を積極的に導入、イングランドで知り合ったノルマン人の友人達をスコットランドに招き、要職につけた。その中にはブルース家・ベイリャル家・スチュワート家など後に王家となる家系も含まれ、彼等に土地を与え封建的土地所有制度の確立に尽くした。中央・地方政府の整備も進め、最高長官としてスコットランド式部長官(英語版)、スコットランド大法官(英語版)、スコットランド大司馬(英語版)を設置して中央政府の最高責任者として司法・行政における権限を与え、地方行政・司法も中央政府の下部機構に置かれた法務官・地方執行官に当たらせた。こうして、デイヴィッド1世は司法・行政などをノルマン流に改革し、王権の強化に努めた。また、ノルマン人により、石城建築がスコットランドにもたらされた[1][4]

イングランドに所領がある関係でスコットランド王でありながらイングランド王の封臣でもあるため、1127年にヘンリー1世の娘で自身の姪に当たるマティルダへ忠誠を誓った。1135年からイングランドでスティーブンとマティルダの間に王位争い(無政府時代)が起こるとそれに介入、1136年にマティルダ支持を宣言してイングランド領に攻め込み、カーライル、ニューカッスルを占領、第1次ダラム条約(英語版)でカーライルを確保した。1138年にスタンダードの戦い(英語版)でスティーブンに敗れ、いったんはカーライル、ニューカースルを失ったものの、1139年の第2次ダラム条約(英語版)でスティーブンと和睦した結果、ノーサンバーランドカンバーランドなどの支配権を獲得した。1149年に大甥アンリ(マティルダの子、後のヘンリー2世)を騎士に叙任した時、ウェストモーランド(英語版)も加えた3州の領有を認められ、内乱を通じてイングランド北部を支配下に置いた。この時にイングランドより得たカーライルの貨幣鋳造所により、スコットランドで初めてコインを鋳造、これによりスコットランドでコインが流通し、かねてから度量衡統一と自由都市や市場を次々と開設したことも相まって経済が発展した[1][5]

宗教政策においても、司教区を整備し、教育を通じた人材育成を図り教会や修道院を建設するなど改革を進めたため、スコットランド国内にキリスト教が広く普及した。また、スコットランド化した古英語スコットランド語)が共通語として通じるようになった[1][6]

デイヴィッド1世の統治した時代、スコットランドは国家と呼ぶにふさわしい国に仕立て上げられ、デイヴィッド1世は最初の偉大な王と呼ばれることになった。1153年5月24日、カーライルで没した。息子のハンティンドン伯ヘンリーに先立たれていたため、王位は孫でヘンリーの2人の息子マルカム4世、次いでウィリアム1世の兄弟が継いだ[7]
子女

1107/14年に、ノーサンブリア伯・ハンティンドン伯ワルセオフとイングランド王ウィリアム1世の姪ジュディスとの娘であるハンティンドン女伯モード(英語版)(マティルダ)と結婚し、以下の子女をもうけた。

マルカム(1113年 - ?) - 夭折

ヘンリー(1114年 - 1152年) - ハンティンドン伯・ノーサンブリア伯。父に先立って死去。マルカム4世ウィリアム1世の父。

脚注^ a b c d 松村、P189。
^ 森、P58 - P60、トランター、P55、P64、青山、P332、朝治、P234。
^ トランター、P62 - P64。
^ 森、P60 - P64、青山、P337 - P339、P342 - P343、トランター、P64 - P68、朝治、P240 - P241。
^ 森、P63 - P69、青山、P332 - P333、P344、トランター、P73 - P74、朝治、P234 - P235、P237。
^ 森、P65 - P66、P70、トランター、P69 - P71。
^ 森、P70 - P71、トランター、P74。

参考文献

森護『スコットランド王室史話』大修館書店、1988年。

青山吉信編『世界歴史大系 イギリス史1 -先史?中世-』山川出版社、1991年。

ナイジェル・トランター著、杉本優訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。

松村赳・富田虎男編『英米史辞典』研究社、2000年。

朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄編著『中世英仏関係史1066-1500 ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、2012年。

関連項目

メルローズ修道院










スコットランド王(1124年 - 1153年)
アルピン朝

ケネス1世848-858

ドナルド1世(英語版)859-863

コンスタンティン1世(英語版)863-877

エイ(英語版)877-878

ギリック(英語版)878-889

ヨーカ(英語版)878-889

ドナルド2世889-900

コンスタンティン2世(英語版)900-942

マルカム1世(英語版)942-954

インダルフ(英語版)954-962

ダフ(英語版)962-967

カリン(英語版)967-971

ケネス2世(英語版)971-995

コンスタンティン3世(英語版)995-997

ケネス3世(英語版)997-1005

マルカム2世1005-1034

アサル朝

ダンカン1世1034-1040

マリ朝

マクベス1040-1057

ルーラッハ1057-1058

アサル朝

マルカム3世1058-1093

ドナルド3世1093-1094

ダンカン2世1094

ドナルド3世1094-1097

エドガー1097-1107

アレグザンダー1世1107-1124

デイヴィッド1世1124-1153

マルカム4世1153-1165

ウィリアム1世1165-1214

アレグザンダー2世1214-1249

アレグザンダー3世1249-1286

ユングリング家

マーガレット1286-1290

ベイリャル家

ジョン・ベイリャル1292-1296

ブルース朝

ロバート1世1306-1329

デイヴィッド2世1329-1371


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