デイヴィッド・スターリング
Archibald David Stirling
デイヴィッド・スターリング(1942年頃)
渾名「幽霊少佐」(英: The Phantom Major)
生誕 (1915-11-15) 1915年11月15日
スコットランド・パースシャー州
イギリス陸軍
特殊空挺部隊
第8コマンド部隊(英語版)
スコットランド近衛歩兵連隊
将校養成団(OTC)(英語版)
軍歴1937年 - 1947年
最終階級中佐(Lieutenant Coronel)
除隊後民間軍事会社や、カプリコン・アフリカ協会(英語版)の設立
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サー・アーチボルド・デイヴィッド・スターリング中佐(英語: Sir Archibald David Stirling)(殊功勲章(DSO)、大英帝国将校勲章(OBE)受賞者)(1915年11月15日生まれ、1990年11月4日没)はイギリス陸軍のスコットランド出身士官、特殊空挺部隊(SAS)の創設者。第二次世界大戦で従軍していた。 スターリングはスコットランド・パースシャー州
戦前の人生
彼はカトリック系の寄宿学校アンプルフォース・カレッジ(英語版)で教育を受けたものの、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジには1年しか通わず、その後に芸術家となるべくパリへ発った。6フィート6インチ(198センチ)の長身で強壮な体格の持ち主であり、第二次世界大戦の勃発時にはエベレスト山に登るため訓練中であった[1]。 スターリングは将校養成団(OTC)
第二次世界大戦と、SASの創設
1941年2月1日、レイフォースはロドス島の占拠を援護するため中東方面へ航行したが、クレタ島の戦いとリタニ川の戦い(英語版)で多数の死傷者を出して解隊となった。スターリングは引き続き、戦争が機械化された様相からして、高度に訓練された兵士からなる小規模の一団が奇襲の優位性を備えることで、砂漠から一晩に数か所の目標を攻撃可能であると信じていた[3]。
指揮系統を通じて自らの考えを申し送っても効果は望めないと考えて、スターリングは直接最上層の下へ赴くことを決めた。落下傘降下での事故で松葉杖をつきながらも、最高司令官のクロード・オーキンレック将軍との面会を試みて、彼はカイロの中東方面司令部へ密かに(柵の下を潜ったか、あるいは上を乗り越えて)入り込んだ[4]。
警備に見とがめられ、彼は杖を捨てて建物に入り込んだが、以前に対立していたある士官と出くわしてしまった。素早く退いた彼は、副参謀長ニール・リッチー将軍の執務室に入った。スターリングは自らの計画をリッチーに説明し、相手の方はすぐさまオーキンレックへ、新たな特殊作戦部隊をスターリングが編成することを認めるよう説得した。北アフリカ戦線に存在する空挺旅団というダドリー・クラーク(英語版)の欺瞞策を裏書きするため、この部隊は意図的に誤認させるような「特殊空挺旅団・L分遣隊」の名称を与えられた[5]。
カブリト飛行場(英語版)に根拠地を設営した当初から、彼らは装備、特に天幕や関連装備に不足を来たしていた。新しいSAS部隊の最初の作戦は、装備が行き届いていた近傍のニュージーランド軍連隊から、天幕・寝具・卓・椅子・ピアノを含むその他無数の用品類を持ち去ることであった。少なくとも4度の訪問行の後、彼らは物資の豊富な軍営を手にしていた[6]。