デイヴィッド・スターリング
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デイヴィッド・スターリング
Archibald David Stirling
デイヴィッド・スターリング(1942年頃)
渾名「幽霊少佐」(: The Phantom Major)
生誕 (1915-11-15) 1915年11月15日
スコットランド・パースシャー州(英語版)・レクロプト(英語版)
キア・ハウス(英語版)
死没 (1990-11-04) 1990年11月4日(74歳没)
イングランドロンドン
ウェストミンスター
所属組織

 イギリス陸軍

特殊空挺部隊

第8コマンド部隊(英語版)

スコットランド近衛歩兵連隊

将校養成団(OTC)(英語版)

軍歴1937年 - 1947年
最終階級中佐(Lieutenant Coronel)
除隊後民間軍事会社や、カプリコン・アフリカ協会(英語版)の設立
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サー・アーチボルド・デイヴィッド・スターリング中佐(英語: Sir Archibald David Stirling)(殊功勲章(DSO)大英帝国将校勲章(OBE)受賞者)(1915年11月15日生まれ、1990年11月4日没)はイギリス陸軍スコットランド出身士官、特殊空挺部隊(SAS)の創設者。第二次世界大戦で従軍していた。
戦前の人生

スターリングはスコットランド・パースシャー州(英語版)レクロプト(英語版)行政教区の、家系伝来の屋敷であるキア・ハウス(英語版)で生まれた。キア領主のアーチボルド・スターリング(英語版)准将と、またラヴァト卿サイモン・フレイザー(英語版)(スコットランド王チャールズ2世の末裔)の娘マーガレット・フレイザーとの間の息子であった。従って第15代ラヴァト卿のサイモン・フレイザー(英語版)は従兄にあたった。父方の祖父母は第9代準男爵のサー・ウィリアム・スターリング・マクスウェル(英語版)と、レディ・アンナ・マリア・レズリー・メルヴィルであった。

彼はカトリック系の寄宿学校アンプルフォース・カレッジ(英語版)で教育を受けたものの、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジには1年しか通わず、その後に芸術家となるべくパリへ発った。6フィート6インチ(198センチ)の長身で強壮な体格の持ち主であり、第二次世界大戦の勃発時にはエベレスト山に登るため訓練中であった[1]
第二次世界大戦と、SASの創設

スターリングは将校養成団(OTC)(英語版)アンプルフォース・カレッジ(英語版)分遣隊から、1937年7月24日スコットランド近衛歩兵連隊への任命を受けた[2]1940年6月、彼はロバート・レイコック(英語版)中佐が指揮する新設の第8コマンド部隊(英語版)へ志願し、それがZ部隊(後に「レイフォース」と命名される)の一部となった。

1941年2月1日、レイフォースはロドス島の占拠を援護するため中東方面へ航行したが、クレタ島の戦いとリタニ川の戦い(英語版)で多数の死傷者を出して解隊となった。スターリングは引き続き、戦争が機械化された様相からして、高度に訓練された兵士からなる小規模の一団が奇襲の優位性を備えることで、砂漠から一晩に数か所の目標を攻撃可能であると信じていた[3]

指揮系統を通じて自らの考えを申し送っても効果は望めないと考えて、スターリングは直接最上層の下へ赴くことを決めた。落下傘降下での事故で松葉杖をつきながらも、最高司令官のクロード・オーキンレック将軍との面会を試みて、彼はカイロの中東方面司令部へ密かに(柵の下を潜ったか、あるいは上を乗り越えて)入り込んだ[4]

警備に見とがめられ、彼は杖を捨てて建物に入り込んだが、以前に対立していたある士官と出くわしてしまった。素早く退いた彼は、副参謀長ニール・リッチー将軍の執務室に入った。スターリングは自らの計画をリッチーに説明し、相手の方はすぐさまオーキンレックへ、新たな特殊作戦部隊をスターリングが編成することを認めるよう説得した。北アフリカ戦線に存在する空挺旅団というダドリー・クラーク(英語版)の欺瞞策を裏書きするため、この部隊は意図的に誤認させるような「特殊空挺旅団・L分遣隊」の名称を与えられた[5]

カブリト飛行場(英語版)に根拠地を設営した当初から、彼らは装備、特に天幕や関連装備に不足を来たしていた。新しいSAS部隊の最初の作戦は、装備が行き届いていた近傍のニュージーランド軍連隊から、天幕・寝具・卓・椅子・ピアノを含むその他無数の用品類を持ち去ることであった。少なくとも4度の訪問行の後、彼らは物資の豊富な軍営を手にしていた[6]

短い訓練期間を経た後、クルセーダー作戦の援護として落下傘降下でドイツ軍飛行場を攻撃するという1941年11月16日の最初の試みは、悲惨なものであった。当地域を過去最大級の嵐の一つが見舞う中で経路から吹き飛ばされ、あるいは間違った地域に着陸し、当初の55名の中で34名に及ぶ者が目標からはるかに離れて戦死し、負傷し、あるいは捕虜となった。攻撃後に部隊を収容する予定であった長距離砂漠挺身隊(LRDG)の助けがあってようやく脱出し、夜の護りの下で陸路を接近する方が、落下傘降下よりも安全かつ効果的であることにスターリングは同意した。彼は可能な限り速やかに、このような単純な手法を用いた港湾への襲撃を組織し、しばしば夜半の検問所を、配下隊員の一部による語学の技量をもって切り抜けた[7]スターリング(右)と、ジープに搭乗したSASのマクドナルド中尉ら2名。

彼の指揮下で、ジョック・ルイス(英語版)が初の携帯型の爆発・発火両用器材であるルイス爆弾(英語版)を考案した。厳しい砂漠の地勢に他の移動手段よりも適していたアメリカ製のジープは、切り詰められて調整され、ヴィッカース・K型銃(英語版)を前後に装着されていた。彼はまた、発見を免れるために少人数を用いる点でも先駆的であった。後方から指揮を執る難しさを知り、スターリングはしばしば先頭に立って指揮を行い、配下のSAS部隊は初期の作戦戦術であった徒歩での敵飛行機への爆弾設置に代えて、敵の飛行場を突っ切って飛行機や要員を銃撃した。

最初のジープを利用した飛行場襲撃は、1942年6月に最初のジープの一群を受領してほど経たない後に行われ、スターリングのSAS部隊はイタリア軍が駐留するバグース飛行場へ、同夜における他2箇所の枢軸軍飛行場と並んで攻撃を行った。カイロに戻った後、スターリングはさらなる飛行場襲撃のため、追加のジープを託された。彼の最大の成功は、1942年7月26日から27日に配下のSAS大隊が18台のジープをもってシディ・ハニシュ滑走路を襲い(英語版)、大半は爆撃機・大型輸送機であった枢軸軍の37機を破壊し、1名を戦死で失ったものであった。敵の巡視隊や航空機を避けて砂漠を横断した後、スターリングと部下の者たちはカッターラ低地の縁にあるカレト・タートゥラの前進基地へ戻り、安全を確保した[8]

このような一撃離脱の諸作戦が結局は、スターリングの転落のもととなった。エルヴィン・ロンメル元帥から「幽霊少佐」(The Phantom Major)の綽名を呈された後、彼は1943年1月にドイツ軍に捕らえられた[9]。脱走したものの、続いてイタリア軍に再び捕らえられ、そちらの方は同盟者のドイツ軍へ事態がもたらした不面目を大いに面白がった[10][11][12]。さらに4度の脱走の試みがなされ、次いでスターリングは遂にドイツのコルディッツ城(英語版)へと送られて、その後の戦時は当地に留まった[11][注釈 1]


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