デイヴィッド・ジョンストン
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この項目では、セント・ヘレンズ山で亡くなったアメリカの火山学者について説明しています。第28代カナダ総督については「デイヴィッド・ロイド・ジョンストン」をご覧ください。

デイヴィッド・ジョンストン
1980年のセント・ヘレンズ山噴火により死亡する13時間前の姿。
生誕デイヴィッド・アレクサンダー・ジョンストン
1949年12月18日
アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
死没 (1980-05-18) 1980年5月18日(30歳没)
アメリカ合衆国ワシントン州セント・ヘレンズ山
死因セント・ヘレンズ山の噴火活動により死亡
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デイヴィッド・ジョンストン (英語: David Alexander Johnston、1949年12月18日 - 1980年5月18日)は、アメリカ合衆国火山学者である。アメリカ地質調査所  (USGS)  に所属していた。アメリカ合衆国ワシントン州にあるセント・ヘレンズ山が1980年に噴火活動を起こした際、観測チームの主任科学者として、山頂から6キロメートル離れた位置に設けられていた観測所で当番についていた時に、5月18日の朝に起きた山体崩壊を伴う噴火に巻き込まれて死亡した。最初に噴火発生を報告した人物であり、無線に "Vancouver! Vancouver! This is it!" (「バンクーバー! バンクーバー! ついに来た!」)と叫んだ後、横薙ぎの爆風と火砕流に巻き込まれて亡くなっている。ジョンストンの遺体は見つからなかったが、彼が使用していた USGSのトレーラーは、1993年に州道管理作業員によって発見されている。

ジョンストンの経歴を見ると、アラスカ州のオーガスティン山からコロラド州のサン・ファン火山地域(英語版)、ミシガン州の長期間活動のない火山というように、アメリカ国内を渡り歩いて研究を行っている。彼は、火山性ガスの分析と噴火との関連に関する研究で、綿密で才能のある学者として認められていた。彼の示す熱情と前向きな姿勢は、多くの同僚から好意と敬意を受けており、彼の死後、幾人もの科学者が口頭もしくは献辞や書簡で彼の人柄を称えている。ジョンストンは自然災害から人々を守る一助となるために、科学者はリスクを取ってでも必要なことはやり遂げる必要があるとの信念を持っていた。彼と同僚の USGS に所属する科学者の活動は、1980年の噴火に際して当局にセント・ヘレンズ山周辺への立ち入り規制の必要性を確信させた。解除を求める強い圧力のなかで規制を維持し続けた結果、何千もの命が救われている。彼の物語は、一般の人々がもつ火山噴火と社会に対する脅威についてのイメージの中に組み込まれ、火山学の歴史の一部となった。

その死後、ジョンストンを記念していくつかの動きがあった。ワシントン大学は大学院生を対象とする彼の名を冠した記念基金を設立している。また、彼の名を冠する火山観測所が、ワシントン州バンクーバーと彼が亡くなった尾根上の2ヶ所に設立された。彼の人生と死は、様々なドキュメンタリーや映画、ドラマ、書籍の題材となった。噴火の犠牲となった多くの人々とともに、ジョンストンの名前も彼の献身を悼み碑文に刻まれている。
経歴セント・ヘレンズ山から放出している二酸化硫黄ガスを計測するための紫外線を解析する相関分光計を操作するジョンストン(1980年4月4日撮影)。

ジョンストンは1949年12月18日、シカゴ大学医学センター(シカゴ大学医学センター)でトーマス及びアリス・ジョンストン夫妻の子供として誕生した[1][2]。夫妻はイリノイ州ホームタウン(英語版)に居を構えていたが、ジョンストンが生まれてすぐに、同じ州内のオーク・ローン(英語版)に転居した[1]。ジョンストンは1人の姉妹[訳注 1]とともに育ち、父親は地元企業でエンジニアとして働き、母親は新聞の編集者をしていた。ジョンストンは時折、母親が関わる新聞用に写真を提供し、自分の学校新聞に寄稿している。彼に妻子はいない[1]

高校を卒業後、ジョンストンはイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校に入学し、当初はジャーナリズムを専攻する予定だったが、大きな講義クラスの程度の低さに失望し、受講した地質学の基礎クラスで興味を唆られて専攻を変更することにした[1]。彼が最初に取り組んだ地質学の研究プロジェクトは、ミシガン州アッパー半島を構成する先カンブリア時代の岩石を対象としたものだった。そこで彼は、変成した玄武岩斑糲岩岩床閃緑岩と斑糲岩の貫入の形態をした火山の基盤など、当時の火山の痕跡を調査した。この経験は、ジョンストンに火山への情熱の火をつけた。講義を熱心に受講し[1]、1971年に首席で卒業した[3][4]

ジョンストンは卒業した夏に、コロラド州のサン・ファン火山地域(英語版)に向かい、火山学者のピート・リップマンの2つの消滅したカルデラに関する研究を手伝った[1][3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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