デイモン・ヒル
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デイモン・ヒル
Damon Hill
OBE
2019年度グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードにて
基本情報
フルネームデイモン・グラハム・デベリュー・ヒル
国籍 イギリス
出身地 イングランド
ロンドンハムステッド
生年月日 (1960-09-17) 1960年9月17日(63歳)
F1での経歴
活動時期1992-1999
所属チーム'92 ブラバム
'93-'96 ウィリアムズ
'97 アロウズ
'98-'99 ジョーダン
出走回数115
タイトル1(1996年
優勝回数22
表彰台(3位以内)回数42
通算獲得ポイント360
ポールポジション20
ファステストラップ19
初戦1992年スペインGP
初勝利1993年ハンガリーGP
最終勝利1998年ベルギーGP
最終戦1999年日本GP
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デイモン・ヒル(デーモン・ヒル、Damon Graham Devereux Hill、OBE1960年9月17日 - )は、イングランド出身の元レーシングドライバー

1960年代の名レーサーだったグラハム・ヒル(F1タイトル2回)の息子。自身もF1界で活躍し、1996年にはウィリアムズチームにてドライバーズ・タイトルを獲得した。引退後は、母国レーシングクラブの要職などを務めている。
プロフィール
生い立ち父グラハム・ヒル

ロンドンのハムステッドにて、F1ドライバーの父グラハムと、元ボート競技選手の母ベティ[1][2][注 1]の間に第二子、長男として生まれた。

父であるグラハムがレーサーとしての才能を開花し始めた1960年に誕生したということもあり[注 2]、洗礼式では父グラハムの戦友であった当時のトップドライバー仲間に囲まれる[3]など、幸福な少年時代を送った[注 3]

少年時代のヒルはレースに興味が持てなかった。それは、「親父の仕事という認識しか無かった。子供の頃はあれほど退屈なことは無かったんだ。あちこちに連れていかれては、どこに行ってもたくさんの人に囲まれる、その繰り返し。僕と姉、妹の面倒を見る専門の人がいたほどだ。記憶にあることと言えば、毎年夏休みの終わりに家族総出でイタリア・グランプリに行くことになっていた。でも、伝統あるモンツァ・サーキットだと言っても、少年の僕は特別な印象を受けなかったなぁ(笑)。毎年ここに来るとそろそろ新学期がはじまるなという気分だった。」「7歳のとき、父の4回目のモナコGP優勝を友達の家のテレビで見てたんだ。みんなはヒルの優勝は間違いないって騒いでるけど、僕は自分の父親が今トップで走っているのに、テレビの前で2時間も座ってるのが苦痛だったんだ。要するに興味がないんだよね。親父が優勝してトロフィーを受け取る所も見てたけど、親の七光りから逃れて普通の少年でいたかったよ。」と述べている[5]

1975年、14歳で二輪のトライアル大会に出場し、初の競技会を経験する。しかし、11月末にグラハムがエンバシー・ヒルのチームクルーと共に軽飛行機事故で死亡。飛行機を操縦していたグラハムはイギリスにおける飛行免許(計器飛行証明)を更新しておらず無免許状態であったため、保険金の支払いは認められず[6][7][注 4]、同乗者への補償金支払いのためにヒル家は一転して窮乏生活を強いられる事になった。

青年時代は音楽の道に進もうとした時期もあったが、やがて、「親父が何をやっているのか、ようやくわかってきた感じになった。それで少しずつ興味が湧いてきた。親父があんなことになって目の前から消えてしまった。人間ってそんなふうに何かを失うと、もう一度欲しくなるもんなんだよ。今でも親父が向こうから歩いてくるような気がするんだ。とても死んだなんて信じられていない。そして、猛烈にレースってやつに関わりたくなった」として、父と同じくモータースポーツの道を選び、バイク便のアルバイトをしながら二輪レースに参加した。この時点でも四輪レーサーになろうという考えは全くなかった。バイク便の仕事は楽しかったと言い「その会社のことを探るにはうってつけの仕事だった。ある日「リコー」に行ったんだ。世界有数のコピー機メイカーだと知って、アプローチを掛けたらスポンサーになってくれた。それから何年かサポートしてくれて、バイク便をやったおかげだったね。」との逸話がある[5]
レースデビュー

1980年から1984年まで5シーズンに渡って学業のかたわら2輪レースに参戦し、最終年となる1984年にはブランズハッチのクラブマンカップ350ccクラスにヤマハのマシンで出場しタイトルを獲得した。途中、1983年にフォーミュラ・フォード2200に1戦のみテスト参戦し、23歳で4輪レースデビューした。この時のチームのエースでポール・トゥ・フィニッシュを飾ったのはアンソニー・レイドである[5]

ブランズハッチのオーナーであるジョン・ウェッブの援助により[11]、1985年には本格的に4輪レースへ転向し、フォーミュラ・フォード1600に参戦した。1986年からイギリスF3にステップアップ。当初はウェストサリー・レーシングから参戦予定だったが、開幕前の2月21日のテスト走行で同僚のベルトラン・ファビ(フランス語版)が事故死してしまったのを受け、チームの同年活動休止が決まったためにマーレイ・テイラー・レーシングに急遽移籍しての参戦となった。1987年にインタースポーツ・レーシングに移籍し、ラルトトヨタで2勝を挙げランキング5位に入る。同年チャンピオンはFF1600時代から同じレースに出場していたジョニー・ハーバートであり、彼とはF1引退後も友人である。1988年1月末、新人発掘に長けるピーター・コリンズから誘われ、ベネトンのF1テストドライブを経験する[5]。イギリスF3では前年に続いて2勝を挙げ、ランキング3位を獲得。この年には国際F3000選手権へもスポット参戦した。
F3000/ル・マン

1988年のシーズン終盤に国際F3000選手権へデビューし、1991年まで3シーズンフル参戦する。1989年はシーズン途中より片山右京に代わりムーンクラフトシャシーを使用するフットワークチームから参戦したが、このシャシーの熟成度が低く目立った成績は残せなかった。同年はル・マン24時間レースや、イギリスF3000選手権にも参戦した。

1990年、ミドルブリッジ・レーシングへ移籍。ポールポジション3回、ファステストラップ2回を獲得し、5戦でレースをリードするなど活躍したが、勝利を挙げることはできなかった。同年にミドルブリッジがF1のブラバムを買収しオーナーとなったことで、ヒルは同年のブラバムテスト&リザーブドライバーとしても指名された[12]。ミドルブリッジF3000チームはブラバムのテスト・チームとなったため、1991年の国際F3000選手権にはエディ・ジョーダン・レーシングとミドルブリッジの提携参戦という形になり、ヒルはバークレイ・チーム・ジョーダンからの参戦となった。
ウィリアムズ加入とF1デビューヒルがF1デビューしたブラバム・BT60B

1991年、F1の名門チームウィリアムズにテストドライバーとして起用された[13]。これは前任者のマーク・ブランデルブラバムのレギュラーシートを得たため、ウィリアムズから離れるという話を小耳に挟んだヒルが、1990年のクリスマスにダメもとでテクニカル・ディレクターのパトリック・ヘッド電話をかけて問い合わせたのがきっかけであり、エディ・アーバインアンドリュー・ギルバート=スコットペリー・マッカーシーデビッド・ブラバムジュリアン・ベイリーなどの候補者の中からヒルが抜擢された。このときヒルは四輪レースを始めて以来「初めてほっとできた。戦闘力の低いF3000からいきなりF1のベストマシンに乗れる。テストとは言えこんな貴重な経験はないと思った」とその喜びを語っている[5]

ウィリアムズでのテスト走行をこなしつつ、1992年スペインGPでジョバンナ・アマティに替わりかつて父グラハムも所属したブラバムからF1デビューを果たした。ミドルブリッジ・グループ傘下の「モーターレーシング・ディベロップメント・プロダクツ」によって運営されているブラバムは92年になると日本企業のスポンサーも減少し深刻な資金難から存続が危ぶまれており、マシンも前年度の小改良に留まるなど競争力に欠け、多くのレースで予選落ちを重ねた。母国イギリスGPで初めて予選を通過し、決勝レースに出走(記録上のF1デビュー)し最下位ながらも完走した。その後ハンガリーGPでも予選通過、最下位で完走を果たした。そのハンガリーGPをもってブラバムは活動を停止し、これ以降ヒルにレース出場の機会は訪れずに終わった。このブラバムでの参戦について、「少なくともF1のシートだし、チームはひどい資金難で制限が多かったけど、でもF1グランプリにデビューさせてくれたのだから感謝しているんだ。おふくろも純粋なレーシングファンなので、F1デビューを喜んでくれたよ。」と述べている[5]ウィリアムズ・FW15Cをドライブするヒル(1993年イギリスGP)

1993年、前年にチャンピオンを獲得したナイジェル・マンセルとチームとの交渉が決裂し、リカルド・パトレーゼもチーム体制に不満を抱き、両者揃ってウィリアムズを離脱する。チームは1992年休養中の身であったアラン・プロストを招聘する一方、ヒルをテストドライバーから昇格させた[注 5]。序盤は経験不足を露呈する場面も見られたが、3度のチャンピオンを相手に次第に存在感を見せるようになる。プロストの地元フランスGPで初ポールポジションを獲得し、決勝ではプロストを猛追する場面もあったがチームオーダーにより2位キープ。続く母国イギリスGPにおいて予選ではプロストに敗れるもスタートで首位に躍り出てトラブルでリタイアするまでは快走。ドイツGPでも残り3周でタイヤバーストで涙を呑んだ。しかし第11戦ハンガリーGPでは2位以下を1分以上引き離し、F1参戦19戦目(決勝レース出場は13戦目)にして初優勝を達成した。これを皮切りにベルギーGPイタリアGPと3連勝し、この時点ではチャンピオン獲得の可能性も残っていた。ポルトガルGPでもポールポジションを獲得したが、フォーメーションラップにスタートできず最後尾にまわり好機を逸した。結局年間ランキングはプロスト、セナに続く3位で終えた。
チャンピオン候補カナダGPにてウィリアムズFW17・ルノーを駆るヒル(1995年)

1994年、アラン・プロストと入れ替わってエース・ドライバーとなったアイルトン・セナとともにウィリアムズから継続参戦。しかし、開幕前の下馬評を覆す形でベネトンミハエル・シューマッハが開幕3連勝し、チャンピオンシップの主導権を握った。そんな中第3戦サンマリノGPでセナが事故死し、これによりヒルは唐突にエースドライバーになった。

その後シューマッハは第4戦モナコGP、第6戦カナダGP、第7戦フランスGPで勝利するなど、シューマッハ優勢のレースが続き、前半戦終了時点でポイントはシューマッハの66点に対し、ヒルは29点と劣勢に立たされていた。しかし、ヒルが制したイギリスGPにて、シューマッハはフォーメーションラップでヒルを追い越したレギュレーション違反行為、およびその後のレース中に課せられたペナルティ指示を無視し続けたことに対し、FIAがシューマッハにイギリスGPのリザルトから除外および2戦出場停止と言う厳罰を課したことで事態は一変した。ヒルはシューマッハが出場停止となったレースをいずれも制し、更に日本GPでは雨天下で変則2ヒート制になった中で勝利を収め、最終戦直前では1点差まで追い上げた。

最終戦オーストラリアGPでは、スタートでポールシッターのマンセルがホイールスピンにより出遅れ、シューマッハがトップに立った。シューマッハは得意の先行逃げ切りを図るが、ヒルも遅れることなく追走し、先頭の2台がファステストラップを出し合いながら3位以下を引き離す展開となった。しかし、ヒルに追われて焦ったシューマッハがコースアウト、シューマッハは無理やりコースに戻り次の右コーナーでヒルがシューマッハのインを突くが、シューマッハはアウトから被せて両者激突、シューマッハは車体の右半分が浮き上がりコントロールを失い、そのままコース脇のタイヤバリアに直行して激突した。


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