デイビッド・ハンター
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デイビッド・ハンター
David Hunter
1802年7月21日-1886年2月2日(83歳没)
デイビッド・ハンター将軍
渾名黒いデイブ(Black Dave)
生誕ニューヨーク州トロイ市
死没ワシントンD.C.
軍歴1822年-1836年、1841年-1866年
最終階級名誉少将
戦闘

第二次セミノール戦争
米墨戦争
南北戦争

第一次ブルランの戦い

1864年のバレー方面作戦

ピードモントの戦い

リンチバーグの戦い


墓所プリンストン墓地
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デイビッド・ハンター(David Hunter、1802年7月21日-1886年2月2日)は、南北戦争の時の北軍将軍である。ハンターは、1862年南部3州で奴隷を解放する未承認の命令を発したこと(即座に取り消された)と、エイブラハム・リンカーン大統領の暗殺に関わった陰謀者達の裁判を行う軍法委員会の委員長を務めたことで名声を得た。
初期の経歴

ハンターはニューヨーク州トロイ市[1]、あるいはニュージャージー州プリンストン[2]で生まれた。著作家でイラストレーターのデイビッド・ハンター・ストラザー(やはり北軍の将軍を務めた)とは従兄弟であり、母方の祖父はアメリカ独立宣言の署名者リチャード・ストックトンだった。ハンターは1822年陸軍士官学校を卒業し、第5アメリカ歩兵連隊の少尉に任官された。南北戦争以前の軍歴記録についてはかなりの空白がある。1828年から1831年には、北西辺境のディアボーン砦(イリノイ州シカゴ)に駐屯し、そこで市では最初の恒久的白人住人ジョン・キンジーの娘マリア・キンジーと出会って結婚した。11年間歩兵隊で務めた後の1833年、第1アメリカ竜騎兵隊の大尉に指名された。1836年7月に退役し、イリノイ州に移住して、そこで不動産取次人[2]あるいは投機家[1]として働いた。1841年11月に軍隊に給与支払担当者として再入隊し、1842年3月に少佐に昇進した[2]。ある史料によれば[3]、第二次セミノール戦争(1838年-1842年)および米墨戦争(1846年-1848年)に参戦したことになっている。

1860年、ハンターはカンザス州レブンワース砦に駐屯しており、ハンターの強い反奴隷制の見解に焦点を当ててエイブラハム・リンカーンと文通を始めた。この関係はその後長く続く政治的な効果があり、その最初のものとして、1861年2月にリンカーンがイリノイ州スプリングフィールドからワシントンD.C.まで大統領就任のための列車の旅をしたときに、同乗するよう招かれた。この任務の時に、ハンターはニューヨーク州バッファローで次期大統領を押し合う群集のために鎖骨を脱臼した。
南北戦争

サムター要塞の戦いの後間もなく、ハンターは第3アメリカ騎兵隊の大佐に昇進したが、その3日後の1861年5月17日、リンカーン政権との政治的結び付きが実を結び、第4位の順位の志願兵准将に指名されワシントン方面軍の1個旅団を指揮した。アービン・マクドウェルの下で1個師団を率い1861年7月の第一次ブルランの戦いに参戦し、首と頬に傷を負った。8月には志願兵の少将に昇進した。ジョン・C・フレモント少将の西部軍で師団長を務め、フレモントが指揮官を解任された後の11月2日、西部方面軍の指揮官に指名された。その冬、カンザス方面軍指揮官に転任し、1862年3月、再度南部方面軍と第10軍団指揮官に転任となった。
将軍命令第11号

ハンターはアフリカ系アメリカ人を北軍の兵士として武装させることを強く提唱した。4月のプラスキ砦の戦い後にサウスカロライナ州の占領地域から黒人兵の徴兵を始め、北軍の連隊としては初めての第1サウスカロライナ(アフリカ系子孫)連隊を結成し[4]、当初は解隊するよう連邦議会から命令されたが、最終的にその行動に対する承認を得た。第2の論争の種はハンターがジョージア州、サウスカロライナ州およびフロリダ州に奴隷を解放する命令を発したことから起こった[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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