デイビッド・エイメス
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イギリス政治家デイビッド・エイメスDavid Amess
2020年
生年月日1952年3月26日
出生地エセックス州プレイストー(英語版)
没年月日 (2021-10-15) 2021年10月15日(69歳没)
死没地エセックス州リー=オン=シー(英語版)
出身校ボーンマス大学(英語版)
所属政党保守党
称号理学士
子女ケイティ・エイメス(英語版)を含む5人
国会議員
選挙区(バシルドン(英語版)→)
サウスエンド・ウェスト(英語版)
在任期間1983年6月9日 ? 1997年4月8日
1997年5月1日 - 2021年10月15日
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サー・デイビッド・アンソニー・アンドリュー・エイメス(Sir David Anthony Andrew Amess, 1952年3月26日 - 2021年10月15日)は、保守党に所属するイギリスの政治家で、1983年から1997年4月までバシルドン(英語版)から議員に選出され、1997年5月から2021年に殺害(英語版)されるまでは、サウスエンド・ウェスト(英語版)選出の国会議員を務めた。
概要

エセックスで生まれ育ったエイメスは、ボーンマス大学(英語版)で経済学と行政学を学んだ後、小学校教師、保険会社、人材紹介コンサルタントなどの職を歴任した。1982年にレッドブリッジの保守党議員に選出され、1983年にはバジルドン選出の庶民院議員に選ばれた。彼の立ち位置は、マーガレット・サッチャー政権に対する「エセックス男性(英語版)」の情熱を象徴する先導者(英語版)とみなされていた。 1992年の選挙では議席を維持したが、選挙区の変更によってそれが不可能になったため、1997年にサウスエンド・ウェスト選出の議員となり、24年後に殺害されるまで務めた。

政府における最高の役職は、マイケル・ポーティロ(英語版)の議会担当秘書官を12年間務めた事だった。バックベンチャー(英語版)として、多くの特別委員会に参加し、1988年家畜の残酷な拘束からの保護法や2000年暖かな家と省エネルギー法など、いくつかの法案の支援者となった。また、動物福祉ラウル・ワレンバーグの追悼、子宮内膜症患者の支援活動などを行った。

妊娠中絶(英語版)や同性結婚(英語版)に反対する社会保守主義なカトリック教徒で、イギリスの欧州連合離脱を支持していた[1]。1983年に結婚し、ハリウッド女優のケイティ・エイメス(英語版)を含む5人の子供をもうけた。

2021年10月15日、エイメスはリー=オン=シー(英語版)で選挙区の対話会(英語版)を行っている最中に複数回刺されて死亡した[2]イスラーム過激派の思想を抱いていると見られるイギリス人の25歳の男が殺人の疑いで現場で逮捕された。その後、テロリズム法(英語版)に基づいて拘留された後に[3]、10月21日、殺人(英語版)およびテロ行為準備の容疑で訴追され[4][5]、終身刑の判決を受けた。
生い立ち

1952年3月26日、デイビッド・アンソニー・アンドリュー・エイメスは、エセックス州プレイストー(英語版)(現在のロンドン・ニューアム区の一部)[6]において、労働者階級の背景を持つ電気技師のジェームズ・エイメスと裁縫士の妻モード・マーティンの息子として生まれた[7][6][8]。 エイメスは母親と同じローマ・カトリック教徒として育った[9]。 モードは2016年10月12日、104歳で没した[10]

エイメスは、セント・アンソニーズ・ジュニア・アンド・インファントスクールを経て、フォレストゲート(英語版)のブーリン・ロードにあるインデペンデント・スクール、セント・ボナベンチャーズ(英語版)・グラマースクール(現在のセント・ボナベンチャーズ・カトリックスクール)に通っていた[11]。後年、彼は、自分の政治的関心の由来はセント・ボナベンチャーズでの生活であると語っている[7]。彼は革命党の立場に立ち、その主要な要求は最低額の小遣いと宿題の廃止だったが[12]、長ずるにつれて彼は、保守派になっていった[12] 。子供の頃の彼は吃音症であり、それを克服するための言語聴覚療法によって、自然なコックニーアクセントが失われた[7][6]。エイメスは、ボーンマス工科大学(現、ボーンマス大学(英語版)科学技術学部)に進学し、経済学と行政学の学士号を取得した[13][14]。 エイメスは、1970年から71年にかけてベスナル・グリーン(英語版)のセント・ジョン・ザ・バプティスト小学校で障害児を教え、1974年?76年にアンダーライターとして短期間活動した後、人材紹介コンサルタントに転身した[12][14]
政治キャリア

彼は、1979年の総選挙で、労働党が議席を占めていたニューアム・ノース・ウェスト(英語版)で選挙戦を戦った結果、同選挙区の議席は労働党のアーサー・ルイス(英語版)議員が維持した。1982年、エイメスはロンドンのレッドブリッジ区の区議会議員に選出された[15]

1983年の総選挙では、バシルドン(英語版)選出で保守党現職のハーヴェイ・プロクター(英語版)議員が、選挙区をビラリキー(英語版)に移した。 エイメスは彼の後任となり、1983年6月9日にハジルドンから庶民院議員に選出された[16]。彼は、マーガレット・サッチャーを熱狂的に支持したエセックス男性(英語版)の新たな層を代表していた。キャンペーン誌(英語版)は彼の事を「労働者階級、父親は電気技師、右翼、鋭い吊るし屋、騒々しく乱暴で曖昧さがないエセックス男性の新たな代表」と表現している[17]

エイメスは、ウェストミンスターでの活動に専念するため、1986年にレッドブリッジ区議会議員を辞任するまで、庶民院議員と地方議員の双方を兼任した。1987年の総選挙では、個人的な支持者を増やす事により、僅差で彼のバジルドンの議席を確保した。 選挙後、エイメスはマイケル・ポーティロ(英語版)の議会担当秘書官に任命され、ポーティロが大臣に就任するまでの10年間、同職を務めた。1992年の総選挙でもエイメスは議席を確保したが、この時は保守党が予想に反して勝利するという予兆があった。バジルドン選挙区は、選挙の成否を占う試金石と見られていた[18]


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