ディーノ・リージ
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Dino Risi
ディーノ・リージ
生年月日 (1917-12-23)
1917年12月23日
没年月日 (2008-06-07) 2008年6月7日(90歳没)
出生地 ロンバルディア州ミラノ県ミラノ
死没地 ローマ
国籍 イタリア
職業映画監督脚本家
ジャンル映画イタリア式コメディ)、テレビ映画
活動期間1940年 - 2005年
活動内容1940年 助監督となる
1952年 長篇劇映画を初監督
配偶者クラウディア・リージ
著名な家族フェルナンド・リージ 兄
ネロ・リージ
クラウディオ・リージ 長男
マルコ・リージ 次男
主な作品
貧しいが美しい男たち
追い越し野郎
女の香り

 受賞
アカデミー賞
1976年 第48回 外国語映画賞ノミネート
女の香り
セザール賞
1976年 外国語映画賞受賞
女の香り
その他の賞
2002年 ヴェネツィア国際映画祭功労金獅子賞受賞

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ディーノ・リージ(Dino Risi、1917年12月23日 - 2008年6月7日)は、イタリア映画監督脚本家である[1][2]マリオ・モニチェリルイジ・コメンチーニナンニ・ロイエットーレ・スコラとならぶ「イタリア式コメディ」の重要人物である。代表作は『貧しいが美しい男たち』、『追い越し野郎』、『女の香り[3]
目次

1 来歴・人物

1.1 医学の素養

1.2 商業デビュー以降

1.3 没後


2 おもなフィルモグラフィ

2.1 1940年代

2.2 1950年代

2.3 1960年代

2.4 1970年代

2.5 1980年代

2.6 1990年代 - 2000年代


3 関連事項

4 関連書籍

5 註

6 外部リンク

来歴・人物
医学の素養

1917年(大正5年)12月23日、イタリアのロンバルディア州ミラノ県ミラノに生まれる[1][2]。26歳離れた兄フェルナンドが撮影照明の技術者で、4歳下の弟ネロは、のちに詩人・映画監督となった[1]

父親はミラノの歌劇場スカラ座専属の医師であったが、リージが12歳になるころ死去した[3]

親戚や両親の友人に育てられて成長したリージは、精神科医としてのキャリアを始める[2][3]が、そのうち、映画批評が好きになり、ニュース記事やシナリオを書き始める。

1940年(昭和15年)、同郷の友人アルベルト・ラットゥアーダが共同脚本に参加し、助監督を務めることとなったマリオ・ソルダーティ監督、アリダ・ヴァリ主演の映画『小さな古風な世界』に、ラットゥアーダに誘われて、初めて助監督として参加する[1][2]

第二次世界大戦中、スイスジュネーヴに移住し、アテネ・ド・ジュネーヴでフランスの映画監督ジャック・フェデーに師事する[2]。第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)から短篇映画やドキュメンタリーを20本近く演出する。1948年(昭和23年)11月12日、スイスのベルンで、長男でのちの映画監督クラウディオ・リージが生まれる[4]
商業デビュー以降

その後イタリアに帰還、ミラノに戻り、1951年(昭和26年)6月4日、次男でのちの映画監督マルコ・リージが生まれる[5]。同年、『ギャングと過ごすヴァカンス』で長篇劇映画監督としてデビューする[1][2]

ルイジ・コメンチーニ監督のヒット作『パンと恋と夢』(1953年)とその続篇『パンと恋と嫉妬』(1954年)につづき、第3弾で交代してリージが監督した「パンと恋と…」(Pane, amore e..., 日本公開題『殿方ごろし』、1955年)が成功し、リージは売れっ子監督となった。最大のヒット作は『貧しいが美しい男たち』(1956年)で[3]、同作は『美しいが貧しい娘たち』(1957年)、『貧しい富豪たち』(1959年)と三部作をなす[1]

困難な人生』、『追い越し野郎』、『怪物たち』、『女の香り』とすべてリージが監督した。『女の香り』は、1992年(平成4年)にハリウッドでリメイクされ、『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』(監督マーティン・ブレスト)となった。


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