ディートリヒ・ボンヘッファー
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ディートリヒ・ボンヘッファー
煙草を吸うボンヘッファー(1939年)
生誕1906年2月4日
ドイツ帝国
プロイセン王国 ブレスラウ
死没 (1945-04-09) 1945年4月9日(39歳没)
ドイツ国 バイエルン州
フロッセンビュルク強制収容所
出身校ベルリン大学
影響を受けたものラインホルド・ニーバー
マハトマ・ガンディー
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ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoefferドイツ語: [?di?t??c ?bo?nh?f?], 1906年2月4日 - 1945年4月9日)は、ドイツ古プロイセン合同福音主義教会(ルター派)の牧師20世紀を代表するキリスト教神学者の一人。反ナチ主義者。ボーンヘッファー、ボンヘーファーとも表記。

第二次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加担し、別件で逮捕された後、極めて限定された条件の中で著述を続けた。その後、暗殺計画は挫折。ドイツ降伏直前の1945年4月9日、処刑を急ぐ国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)により、フロッセンビュルク強制収容所で刑死。ベルリン州立図書館の一階には、絞首台のロープが首にかけられたボンヘッファーを描いた大理石の胸像が展示されている。
生涯
幼少年期と青年期 (1906?1923)ヴロツワフの生家にあるボンヘッファー記念銘板

ディートリヒ・ボンヘッファーは1906年2月4日にブレスラフ(現在のポーランドヴロツワフ)で8人兄弟の6番目の子として生まれた。彼には双生児の妹ザビーネ・ボンヘッファーがいた。父カール・ボンヘッファー (Karl Bonhoeffer) は精神科医神経病理学者であった。母パウラ・ボンヘッファー(旧姓ハーゼ)は、イエナ大学神学部教授でルター派歴史神学者カール・フォン・ハーゼの孫娘で教師であった。従兄弟に反ナチ運動に共に参加したアルビド・ハルナックとファルク・ハルナックがいた。ディートリヒ・ボンヘッファーは富裕な教養市民階層の家庭で成長した。母は家庭内で初等教育を教えたが、キリスト教教育の面で不安を感じていた。なぜなら、父カールは宗教の問題に関して距離を置いていたからである。そのためか、ボンヘッファー家はキリスト教会礼拝には滅多に出席しなかった。

父のカールがベルリン大学からの招聘を受けたため、1912年に家族はベルリンに転居した。双子の妹による回想によると、ボンヘッファーは第1次世界大戦の終わり頃、死と永遠に関する問題に取り組んでいた。次兄ヴァルターが1918年4月に戦死し、母パウラが深い悲しみに沈んだためと言われている[1]。生徒としてボンヘッファーは、フリードリヒ・シュライアマハーの『宗教について 宗教を軽蔑する教養人のための講話』、フリードリヒ・ナウマンの『宗教に関する書簡』を読み、教会史に取り組んだ。ギムナジウムの最終学年時に、彼は選択科目としてヘブライ語を選び、自由科目として福音主義神学に取り組んだ。ボンヘッファーがギムナジウムで大学神学部入学を前提とする科目を選択したことに彼の家族は驚いたが、その意図を理解し支持した。1923年、彼は17歳でベルリンのグルーネヴァルト=ギムナジウム(現在のヴァルター・ラーテナウ=ギムナジウム)でアビトゥーアに合格した。
修学時代(1923?1930)ヴロツワフ市内にあるボンヘッファー記念像

1923年テュービンゲン大学福音主義神学部に入学し、神学の学びを始めた。ここで、哲学の講義も受講している。ここではテュービンゲン大学学生組合イーゲルに加入した。ローマでの研究滞在の後、1924年にベルリン大学神学部に転学した。ここで自由主義神学の担い手たちに出会ったが、とりわけ、アドルフ・フォン・ハルナックから大きな影響を受けた。この時期、独自の弁証法神学を提起していたカール・バルトに傾倒した。ある種の批判的な距離を持ち続けていたが、ボンヘッファーはこの時以来、常にバルトと彼の神学に結びついていた。1927年、21歳で彼は神学博士号をベルリン大学神学部から授与された。教理史家のラインホルト・ゼーベルク教授の下で学位請求論文『聖徒の交わり』(Sanctorum Communio)を書き上げ、最優秀(summa cum laude)の評価を得た。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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