ディートリヒ・クラゲス
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ドイツ国政治家ディートリヒ・クラゲスDietrich Klagges
1938年撮影、制服はSS中将のもの
生年月日1891年2月1日
出生地 ドイツ帝国
プロイセン王国
ヘリングセン(ドイツ語版)
没年月日 (1971-11-12) 1971年11月12日(80歳没)
死没地 ドイツ連邦共和国
ニーダーザクセン州
バート・ハルツブルク(ドイツ語版)
所属政党 国家社会主義ドイツ労働者党
称号 黄金党員名誉章
親衛隊大将

ブラウンシュヴァイク州首相
在任期間1933年5月6日 - 1945年4月12日

ブラウンシュヴァイク自由州内務・国民教育担当大臣
在任期間1931年9月15日 - 1945年5月8日
ドイツ国国会議員
選挙区15区(東ハノーファー地区)(1932年‐1933年)
16区(南ハノーファー=ブラウンシュヴァイク地区(1933年‐1945年)
当選回数6回
在任期間1932年7月31日 - 1945年4月12日
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ディートリヒ・クラゲス(筆名 : ルドルフ・ベルク - Rudolf Berg)(ドイツ語: Dietrich Klagges、1891年2月1日 - 1971年11月12日)は、ナチス・ドイツ政治家親衛隊大将1933年から1945年までブラウンシュヴァイク自由州首相を務め、また、ナチ党指導者であるアドルフ・ヒトラードイツ国籍取得にあたった人物でもある。
経歴

クラゲスは、森林警備員の家に生まれた。小学校に通った後、ゾースト大学で小学校教師としての試験を受け、1911年からボーフム近郊のハルペン(ドイツ語版)で教員として働いた。第一次世界大戦が勃発すると、志願兵として出征したが、1916年に重傷を負い、兵役から除隊された[1]

軍から離れたクラゲスは、1921年頃より、民族主義、反民主主義、反ユダヤ主義文献の執筆活動を行い、新聞などに寄稿していた。
ナチ党時代

1918年、クラゲスはドイツ国家人民党(DNVP)に入党し、1924年まで在籍していた。大戦が終わると、中学校の教師となった。DNVPから去った後、クラゲスはドイツ民族自由党(DVFP)に移籍していたが、1925年国家社会主義ドイツ労働者党へ入党した(党員番号 7,646番)[1]

1926年から1930年に彼は中学校の教頭として勤務し、1928年から1930年まではナチ党の地区指導者を務めていた[1]。また、1930年にクラゲスは、ナチ党での過激な活動のために教員資格を剥奪されている。以後、クラゲスはブラウンシュヴァイク自由州における党の宣伝部長及び弁士として積極的に活動することになった。

1931年3月1日に行われたブラウンシュヴァイク州での地方選挙において、ナチ党はドイツ社会民主党(SPD)とドイツ共産党(KPD)(合計28議席)に次ぐ第3勢力(10議席)にとどまった。

1931年1月1日、ブラウンシュヴァイク自由州の内務・教育大臣であり、ナチ党員でもあったアントン・フランツェン(ドイツ語版)は、クラゲスを州の教育省の評議会に任命していたが、この処置に激しい批判をうけ、辞任を余儀なくされ、ナチ党議員団議長であるフランツ・グローも辞任した。

ブラウンシュヴァイクにおけるナチ党の影響力が危機に迫ったため、ヒトラー自ら介入し、第一党のDNVPに説得と恫喝を行い、その結果、クラゲスは1931年9月15日にブラウンシュヴァイク自由州の、内務・国民教育担当大臣に選出され、州政府の閣僚となった[1]。クラゲスは、ナチ党による政権掌握の2年前の1931年に、ブラウンシュヴァイク州で初めて社民党員とユダヤ人に対する公職追放を布告していた。

1932年7月の国会選挙に立候補し当選している。
ヒトラーのドイツ国籍取得詳細は「アドルフ・ヒトラーのドイツ国籍取得(ドイツ語版)」を参照

ヒトラーは1925年にオーストリアの市民権を放棄しており、それ以来無国籍者であった。ナチ党幹部らはあらゆる手段を駆使してヒトラーのドイツ市民権獲得に奔走していたが、こうした試みは1932年にブラウンシュヴァイクにおいて成功した。ブラウンシュヴァイク自由州ワイマール共和国内で唯一、ナチ党が政府に参画した地域であり、ヒトラーの「帰化」を独自の方式で取得できるようになっていた。

「国家および市民法第14条[2]」に従い、この国籍取得に責任を負ったのは、ブラウンシュヴァイク市ではなく、ブラウンシュヴァイク自由州であった。自由州の内務・国家教育大臣であったクラゲスは、ブラウンシュヴァイク自由州の政府代表として、ヒトラーの国籍取得のためナチ党指導部から直接任命をうけた。

ナチ党宣伝指導者のヨーゼフ・ゲッベルスは、1932年2月4日付の日記で以下のように述べている。 総統が、大統領選挙へ立候補するためには市民権を取得しなければならない。クラゲスはこの問題を解決する任務を負っている[3]

当初、クラゲスはブラウンシュヴァイク工科大学教授職をヒトラーに与えようとしていた。このゲッベルスによる発案は[4]、自由州議会のSPD議員団からの激しい抵抗を巻き起こし、最終的に失敗した。このヒトラーの国籍取得の試みは、政敵から嘲笑の的にされ、しばしばナチ党及びヒトラーへの風刺の対象となった[5]

DVPのハインリヒ・ヴェッセル(ドイツ語版)は、ヒトラーをブラウンシュヴァイク州の公使館に勤務させるように提案した[6]。同日、ベルリンホテル・カイザーホーフにこの知らせが届き、ゲッベルスは「我々はの彼方の住人だ」と日記に記している[7]

1932年2月25日、ヒトラーはベルリンのブラウンシュヴァイク公使館への就任宣誓を行い、同時にブラウンシュヴァイク自由州の市民権を受け取った。これにより、彼は国家と市民法に則りドイツ国籍の取得に成功することとなった。こうして、3月に行われる大統領選挙への立候補が可能となった。

ブラウンシュヴァイク公使館員としてのヒトラーの勤務は殆ど形式的なものであり、1933年2月16日、既に現職の首相となっていたヒトラーは、短い電報でブラウンシュヴァイク州へ公務員資格の解除を要求し、簡潔に処理が行われた。


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