ディングル
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ディングル
アン・ダンガン
/ ダンガン・ウイ・フーイシュ

ディングル港
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ディングル位置図
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯53度8分23.69秒 西経10度16分17.51秒 / 北緯53.1399139度 西経10.2715306度 / 53.1399139; -10.2715306座標: 北緯53度8分23.69秒 西経10度16分17.51秒 / 北緯53.1399139度 西経10.2715306度 / 53.1399139; -10.2715306
アイルランド
地方マンスター
ケリー県
人口(2006年)[1]
 ? 都市部1,920人
Irish Grid ReferenceQ445012

人口推移
年人口±%
18214,538?    
18314,327?4.6%
18413,386?21.7%
18513,273?3.3%
18612,260?31.0%
18712,117?6.3%
18811,833?13.4%
18911,764?3.8%
19011,786+1.2%
19111,884+5.5%
19261,998+6.1%
19361,800?9.9%
19461,683?6.5%
19511,545?8.2%
19561,453?6.0%
19611,460+0.5%
19661,406?3.7%
19711,401?0.4%
19811,358?3.1%
19861,253?7.7%
19911,272+1.5%
19961,536+20.8%
20021,828+19.0%
20061,920+5.0%
[1][2][3][4][5][6]

ディングル(: Dingle、アイルランド語: An Daingean (アン・ダンガン)/ アイルランド語: Daingean Ui Chuis (ダンガン・ウイ・フーイシュ)、「オー・フーイシュ砦」の意)[7]は、アイルランドケリー県にある町。大西洋に突き出たディングル半島唯一の町で、トラリーの南西49km、キラーニーの北西71kmに位置する[8]

基幹産業は観光業と農漁業で、「ディングル・マート」という農家のための家畜マーケットがある。人口は1920人(2006年)[1]アイルランド語を公用語とするゲールタハトの域内。
歴史
発展

ノルマン人のアイルランド侵攻後、港町として発展した。輸出額では13世紀にリムリックを上回り、1257年にイングランド王ヘンリー3世から関税を課された[9]。1329年ごろには主要輸入品であるワインにもパラディンの初代デスモント伯モーリス・フィッツジェラルドから関税がかかった[10]。16世紀になると大陸からワインを輸入して水産物と皮革を輸出する一大貿易港にのし上がり、町を拠点とするフランススペインの漁船団もでてきた[10]

スペインとのつながりは深く、1529年には第11代デスモント伯トマス・フィッツジェラルドとスペイン王カルロス1世がディングル条約に調印[11]。多くの巡礼者が海を渡り、聖ヤコブの墓で有名なサンティアゴ・デ・コンポステラを目指した。市中の教会は17世紀にスペインの支援で改修されたとき、聖ヤコブをまつるものとなった[12][13]

貿易規模はその後さらに拡大し、ワイン輸入を専売する15市町の一角を成した[10]
第二次デスモンドの乱

1579年から翌年にかけ、ディングル半島は戦禍にのまれた。1579年7月17日にジェームズ・フィッツモーリス・フィッツジェラルドが小艦隊を引き連れ町に上陸し、第二次デスモンドの乱が勃発。フィッツジェラルドはいとこの軍勢との衝突で戦死した[14]。艦隊は3日後に町を発ち、半島西端のドゥーナノイルに停泊、翌年のスマーウィック包囲戦に備えた。
要塞化と自治市昇格

市民は1569年、税の還付金をつかって街の周囲に市壁をめぐらせた。しかしデスモンドの反乱が収束すると、エリザベス1世は町を自治市に昇格するとともに市壁の建設を認めたため、これは骨折り損になってしまった。壁の痕跡は今でも見ることができ、また通りの区画はかつての土地所有制度を如実に物語っている[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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