ディレンブルク
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紋章地図
(郡の位置)

基本情報
連邦州:ヘッセン州
行政管区:ギーセン行政管区
郡:ラーン=ディル郡
緯度経度:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯50度44分29秒 東経08度17分02秒 / 北緯50.74139度 東経8.28389度 / 50.74139; 8.28389座標: 北緯50度44分29秒 東経08度17分02秒 / 北緯50.74139度 東経8.28389度 / 50.74139; 8.28389
標高:海抜 230 m
面積:83.76 km2
人口:

23,230人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:277 人/km2
郵便番号:35683 - 35690
市外局番:02771
ナンバープレート:LDK, DIL, WZ
自治体コード:

06 5 32 006
行政庁舎の住所:Rathausstrase 7
35683 Dillenburg
ウェブサイト: ⇒www.dillenburg.de
首長:ミヒャエル・ロッツ (Michael Lotz)
郡内の位置

地図

ディレンブルク (ドイツ語: Dillenburg, [?d?l?nb?rk][2]) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州ギーセン行政管区ラーン=ディル郡に属す市である。ヘッセン州中部の中規模都市で、かつてはディル郡の郡庁所在都市であった。

本市はドイツ=オランダ休暇街道のオラニア=ルートおよびドイツ木組みの家街道沿いに位置しており、広域遊歩道ロタールシュタイクの起点でもある。
地理
位置

ディレンブルクは、ディル川沿いの谷に位置しており、市の北部でディーツヘルツェ川(ドイツ語版)がディル川に注いでいる。市の南部では、シェルダー・ヴァルトから流れ下ったナンツェンバッハ川とシェルデ川がディル川に合流する。ディル川は西のヴェスターヴァルト(ドイツ語版、英語版)と東のグラーデンバッハ山地との接合点となっており、シェルダー・ヴァルトもこれに含まれる。市の北西、ディル川とディーツヘルツェ川との間にロタール山地の支脈であるシュトルト山がある。また、市内の中核支部とマンデルバッハ地区との間にロタール山地南端の山であるガルゲンベルクがある。
隣接する市町村

ディレンブルクは、北はエッシェンブルク、東はジークバッハ、南はヘルボルンおよびブライトシャイト、西はハイガーと境を接している。隣接する市町村はいずれもラーン=ディル郡に属している。
市の構成

ディレンブルクは、中核市区とドンスバッハ、アイバッハ、フローンハウゼン、マンデルバッハ、ナンツェンバッハ、ニーダーシェルト、オーバーシェルトの各市区からなる。
歴史

ディレンブルクは1254年に初めて文献に記録されている。90年後の1344年皇帝ルートヴィヒ4世フォン・バイエルンから都市権を授けられた。

ディレンブルクは、ナッサウ家オラニア家系の本拠地であった。現在の城山に13世紀末または14世紀初めにディレンブルク城が建設された。この城砦はナッサウ家にとって、ヘルボルン城のようなヘッセン方伯レーエン城砦ではなく、自前の城砦であったため、高い重要性を有していた。この城砦の絵図は遺されていない。この城はおそらく木造で、デルンバッハのフェーデのために1323年頃に破壊された。1655年のマテウス・メーリアンの銅版画に描かれたディレンブルク

16世紀に旧城砦跡にディレンブルク城館を含むナッサウ=ディレンブルク伯(ドイツ語版)の宮殿が建設された。1536年からこれと並行して近代的な防衛施設の拡充がなされた。ディレンブルク生まれのヴィルヘルム・フォン・オラニエがこの城に亡命してオランダの対スペイン抵抗運動(1567年 - 1572年)を組織したことが、現在もこの町をオランダ王家と結びつけている。この地方は、ナッサウ=ディレンブルク家の行政管区長官によって運営されていた。最後の長官の1人がプロイシェンおよびリーベンシュタイン男爵ゲオルク・エルンスト・ルートヴィヒである。

1723年に大火が街の大部分を壊滅させた。200棟以上の建物が炎の犠牲となった。この火災後に建設された多くの木組み建築が現在も遺されている。

七年戦争中の1760年にディレンブルク城館は破壊された。城館の廃材からヴィルヘルム通りの建物が建設された。ヴィルヘルムス通りは、たとえばヴィルヘルムス塔と同様、2010年6月8日に武力紛争の際の文化財の保護に関する条約(ハーグ協定)の保護下に置かれた[3]。ヴィルヘルムス通りにはヘッセン州立馬牧場がある。

16世紀に造られた旧城館下の防爆室は、その一部が現存しており、ヨーロッパ最大の地下防衛施設の1つとなっている。この防爆室は戦時には2,000人以上の兵士を収容した。この施設は一部が公開されており、一巡することができる。この施設も、ヴィラ・グリュン同様ハーグ協定の保護下にある。

ナッサウ公国では、この街はアムト・ディレンブルクの本部およびディレンブルク宮廷裁判所の所在地であった。

1875年に、現在この街の象徴的建造物となっているヴィルヘルムス塔が城山に完成した。この塔は、ヴィルヘルム・フォン・オラニエを記念したものである。

19世紀ギーセンからケルンに至る鉄道路線の一部であるジーク=ディル線の建設により工業化革命が始まった。この地域はラーン川ディル川ジーク川流域で発見された鉄鉱石を利用することで発展した。採鉱、冶金、金属加工分野で数多くの企業が創設された。この頃、ディレンブルクから多くの鉄道支線が建設された。ゲンネルンやエーヴェルスバッハへの路線がその例である。ゲンネルンへの路線は1987年に廃止され、完全に撤去された。蒸気機関車時代、多くの支線のために必要だった操車場は1983年に閉鎖された。

第二次世界大戦中、現在は廃止されている操車場を有していたディレンブルクは連合国の爆撃目標とされた。第二次世界大戦後、採鉱はますます採算が合わなくなっていった。1968年に、オーバーシェルト市区の最後の高炉が操業停止した。

2006年9月17日の悪天候により、1 m2 あたり 103 リットルの雨が降った。ディル川とその支流のシェルデ川の水位は堤防を越え、オーバーシェルト市区およびニーダーシェルト市区に流れ込んだ。1000戸の地下室が完全に浸水し、病院も被害を受け、一部は避難が必要であった。この被害総額は、2千万ユーロをはるかに超えた。

2007年に連邦道 B277号線のバイパス道路として城山トンネルが開通した。このトンネルは城山の下を通って歴史的な木組み建築都市を迂回している。
市町村合併

1971年10月1日にアイバッハ、同年12月31日にマンデルバッハ、1972年4月1日にナンツェンバッハがディレンブルクにそれぞれ自主的に合併した[4]

ヘッセン州の地域再編に伴って、1977年1月1日にそれまで独立した町村であったドンスバッハ、フローンハウゼン、ニーダーシェルト、オーバーシェルトが「ディル郡、ギーセン郡、ヴェッツラー郡とギーセン市の新設に関する法律」に基づいてディレンブルク市に合併した[5]
領邦、行政機構

以下にディレンブルクの領邦および行政機構を列記する[6][7]

1739年以前: 神聖ローマ帝国ナッサウ=ディレンブルク伯/侯領(ドイツ語版)アムト・ディレンブルク

1739年から: 神聖ローマ帝国ナッサウ=ディーツ侯領アムト・ディレンブルク

1806年 - 1813年: ベルク大公国(ドイツ語版、英語版)ジーク県ディレンブルク小郡

1813年 - 1815年: ナッサウ=オラニエ侯国アムト・ディレンブルク

1816年から: ドイツ連邦ナッサウ公国アムト・ディレンブルク

1849年から: ドイツ連邦ナッサウ公国クライスアムト・ディレンブルク

1854年から: ドイツ連邦ナッサウ公国アムト・ディレンブルク

1867年から: 北ドイツ連邦プロイセン王国ヘッセン=ナッサウ州(ドイツ語版、英語版)ヴィースバーデン県ディル郡


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