ディレクターズ・カンパニー
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ディレクターズ・カンパニーは、かつて存在した映画製作会社[1]。略してディレカンとも表記される[出典 1]1982年6月25日設立[出典 2][注釈 1]1992年5月倒産[出典 3]
概要

従来の大手映画会社の制約から自立した映画作家による、作家性娯楽性を両立した映画製作の拠点として1982年6月に[出典 4]長谷川和彦を中心として[出典 5]、当時新進の映画監督9人で設立した[出典 6]。当時で言えば「将来を有望視されている若手実力派の総決起」という印象だった[6]。大手映画会社に頼っていては自分たちの希望する映画は作れないとの趣旨で、団結することとなった。長谷川が「将来はスタジオや映画館も持ちたい」などとぶち上げ[6]、設立メンバーは平均年齢31歳と[6]、いずれ劣らぬ個性派集団として、ヤングの間で人気の高い実力派監督という評価だったことから[6]、既成の映画概念をぶち破る斬新で面白い作品を産み出すに違いない、という大きな期待が寄せられた反面[出典 7]1969年黒澤明木下惠介市川崑小林正樹の大監督4人で結成した制作プロ「四騎の会」が『どですかでん』一本で自然消滅した前例もあり[6]、先行きを不安視する見方もあった[6]
メンバー

長谷川和彦 - 代表

石井聰亙

井筒和幸

池田敏春

大森一樹

黒沢清

相米慎二

高橋伴明

根岸吉太郎[出典 8]


宮坂進 - 社長

長谷川安弘 - 副社長

設立経緯

ディレカン設立は、長谷川和彦が「映画はとても金のかかるビジネス。一本やって次の作品を作るエネルギーを蓄えるのが大変。カセ(枷)をはめずに人間関係や行動を広げられるカンパニーを作れないか」[6]「一人の監督の主宰する独立プロではなくて企業としてもちゃんと映画を作っていける集まりを作りたい」などと相米慎二根岸吉太郎にしたら、二人が「やるなら乗ってもいい」と応えたことを発端とする[9]

映画作りの主導権を貫くため、映画界外のスポンサーを探していたが、これを文化活動と理解を示した財界筋のあるスポンサーが見つかり[6]、協力を約束してくれたことから設立を決めた[6]。この財界筋のあるスポンサーは誰だかは分からない。会社のため、各映画監督は年俸制の契約条件が決められた[6]。企画の決定権は9人の監督の合議制ではなく、映画関係以外のブレーンを含めた企画部に社長以下4人の社員と2人の監督が交代制で権限を持った[6]。当時のプログラムピクチャーの弱点だった企画と脚本に、納得いくまで時間をかけて完璧を期す、また各監督がお互いに他の監督作品をプロデュース、脚本を担当し、個性や長所を活かす相互乗り入れ方式を執る、ユニークな映画作りを目指す方針であった[6]

長谷川はディレカン設立直前の「シナリオ」のインタビューで、当時勢いのあった山本又一朗荒戸源次郎佐々木史朗角川春樹辻信太郎など、地位を上げつつあったプロデューサーに比べて、映画監督はまだ雇われ感が強く、団結して地位を上げたいという思いと、自身の出身でもある今村プロのような、60年代に数多く設立された、一監督独立プロではなく、しっかり利益を追求する新しいタイプの独立プロを目指したい、各監督が今までよりは、もっともっとプロデューサー的視点と責任を持たないといけない、自分自身の作品だけじゃなく他の監督の作品に対して、内に潜んでいた未使用の能力を開発して、個ではうまく機能しなくても複合体になれば動くかもしれないし、そうやってカンパニーがある種の弾力性を持った大人の球体になっていけば、これまで個でいたら持てなかった他との接点を持てるようになると思う、などと話していた[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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