ディック・ターピン
[Wikipedia|▼Menu]

リチャード・"ディック"・ターピン
: Richard "Dick" Turpin
ウィリアム・ハリソン・エインズワース(英語版)の小説『ルークウッド(英語版)』の挿絵より
生誕リチャード・ターピン (Richard Turpin)
1705年9月21日洗礼
エセックス、ヘンプステッド(英語版)
死没 (1739-04-07) 1739年4月7日(33歳没)
ヨーク、ナヴェスミア(英語版)
死因絞首刑
別名ジョン・パルマー
職業肉屋、密猟者、住居侵入者、ハイウェイマン
罪名馬泥棒
刑罰死刑
配偶者エリザベス・ミリントン
子供1人 (確証なし)[1][2]
親父:ジョン・ターピン
母:メアリー・エリザベス・パーメンター

有罪判決有罪

リチャード・"ディック"・ターピン(: Richard "Dick" Turpin, 1705年9月21日洗礼 - 1739年4月7日)はイギリスハイウェイマン(馬に乗った追い剥ぎ)。追い剥ぎの罪によりヨークで処刑されたのち、美化されて描かれるようになった。若き日は父親の跡を継ぎ肉屋として働いていたが、1730年代前半、鹿泥棒の一団に加わり、密猟住居侵入、追い剥ぎ、殺人をはたらいた。愛馬ブラック・ベスに乗りロンドンからヨークまでの200マイル(320km)を一晩で走ったことでも知られているが、これは彼の死後およそ100年経ったヴィクトリア時代に、小説家ウィリアム・ハリソン・エインズワース(英語版)によって書かれたために有名になった作り話である。

ターピンは主に追い剥ぎとして犯罪に関わり、1735年に仲間たちが逮捕されてからその年の末まで人々の前から姿を消していた。その後、1737年に新たに2人の仲間を引き連れて現れたが、うち一人を彼が誤って撃ち殺したといわれる。ターピンは現場から逃亡したうえ、その後すぐに自分を捕らえようとした男をも殺害した。そしてその年のうちにヨークシャーに移り、ジョン・パルマーと名を偽った。彼が宿屋に滞在していたとき、地元の治安判事が「パルマー」という名前を不審に思い、職業を尋ねた。そこで追い剥ぎとしての容疑をかけられた「パルマー」ことターピンは、ヨーク城(英語版)に収監されたのち巡回裁判(英語版)にかけられることとなった。ターピンの身元は、彼が独房で義理の兄に書いた手紙が裁判官のもとに渡ったことで明らかになった。1739年3月22日、ターピンには2件の追い剥ぎ容疑で死刑判決が下され、刑は1739年4月7日に執行された。

ターピンは処刑後に伝説となり、イギリスのバラッド18世紀から19世紀にかけての大衆劇場、20世紀の映画やテレビにおいて、颯爽と現れる英雄としてロマンティックに語られた。
青年期エセックス州ヘンプステッドにある、バプティスト教会区の名簿。1705年9月21日分のページにターピンの名前が記帳されている。

リチャード・"ディック"・ターピンは、エセックス州ヘンプステッド(英語版)のブルー・ベル・イン(のちのローズ・アンド・クラウン)で、ジョン・ターピン(: John Turpin)とメアリー・エリザベス・パーメンター(英: Mary Elizabeth Parmenter)との間に、6人きょうだいの5番目として生まれた。彼は1705年9月21日に、両親が10年以上前に結婚式を挙げた小教区洗礼を受けた[3]

ターピンの父親は肉屋を営み、宿屋の主人としても働いていた。いくつかの記録から、ターピンが父親の2つの稼業を継いだことが示唆されている。たとえば10代の頃、ホワイトチャペルの村で肉屋の見習いとして働いていたことや、サクステッド(英語版)で自身の肉屋を営んでいた記述がみられる。1739年に行われた裁判での証言によれば、彼は初等教育を受けており、日付の記録はないが[4]1725年頃にエリザベス・ミリントンと結婚している[注 1]。見習いとして働いたのち、彼らはエセックス州バックハースト・ヒル(英語版)に移り、そこで自身の宿屋を開業した[3]
エセックス・ギャング団

ターピンは1730年代初頭にエセックス鹿泥棒の一団に加わった。鹿の密猟はウォルサム・フォレスト区: The Royal Forest of Waltham)に蔓延しており、1723年にはこの問題を解決すべく「ブラック・アクト」 (Black Act) が法律化された(この呼称は、森で黒装束を着たり、変装して顔を隠すことが禁止されたことから来ている)[6]。鹿に乗った強盗は違法行為であり、民事法廷ではなく治安判事のもとで裁かれた。1737年まで、この罪に課せられた最も重い刑は7年の追放令であった[7]。しかし1731年に、7人の御料林管理官(英語版)が盗賊の犯罪増加を深刻視し、彼らへの憂慮を示す宣誓供述書を作成した。この供述書は初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズ宛てに提出され、彼は盗賊の身元を知らせた者に10ポンドの賞金を与え、仲間を告発した盗賊には恩赦を加えることを約束した。ところが、脅迫状の後看守が家族もろとも殺されるなど残虐な行為が続いたため、1733年に賞金は50ポンドに増額された(2023年の9,923ポンドに相当)[8][9]

エセックス・ギャング団(グレゴリー・ギャングとも呼ばれる)にはサミュエル・グレゴリー、その兄弟のジェレミアとジャスパー、ジョセフ・ローズ、メアリー・ブレイジアー(ギャング団の盗品売買者)、ジョン・ジョーンズ、ロマス・ラウデンと少年のジョン・ウィーラーが所属しており[注 2][10]、彼らは鹿を始末する人手を欲しがっていた。若き日のターピンはこの界隈で肉屋の仕事をしており、彼らと繋がりがあったことはほぼ間違いないと考えられている。ギャングの財の換金はターピンをかき立てたのか、1733年までに彼は肉屋の仕事を辞め、パブを経営するようになった(このパブは、ロンドン、クレイ・ヒル(英語版)にある「バラと冠」(英: The Rose and Crown)が最有力視されている)。ターピンが窃盗に直接関わったことを示す証拠は存在しないが、1734年の夏までにはギャング団と深く関わり、その後暫く彼らと顔を付き合わせていたことが覗える[11]ニューゲート・カレンダーに載せられたラフトンでの襲撃事件のイラスト(19世紀作)

1734年10月までにギャング団の何人かが逮捕されたり逃亡し[12]、残りの団員は密猟をやめ、ウッドフォード(英語版)で蝋燭食料雑貨を売っていた商人ピーター・スプリットの家を襲撃した[注 3]。この事件の犯人の身元は分かっていないが、ターピンが関わっていた可能性がある[注 4]。2日後にも再びウッドフォードを訪れ、ロンドン塔の武器庫で小火器を作る家具商の紳士、リチャード・ウールリッジの家を襲った。12月には、ジャスパーとサミュエルのグレゴリー兄弟、ジョン・ジョーンズ、ジョン・ウィーラーはチンフォード(英語版)で行商人ジョン・グラッドウィンとジョン・ショックリーの家を襲った [15]12月19日、ターピンは5人の男と共に、300ポンドの財産があるとされていたバーキング出身のアンブローズ・スキナーという73歳の農場主の家を襲撃した[16]

2日後、ターピンを除いたギャング団のメンバーが、エッピング・フォレスト(英語版)で猟場番人ウィリアム・メイソンの家を襲った。略奪の間にメイソンの使用人は逃げ延びたが、約1時間後に数人の近隣に住む人々とともに戻ってみると、家は荒らされ、盗賊は姿を消していた[17]1735年1月11日、ギャング団はチャールトンのサンダース家を襲撃した[18]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:125 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef