ディタ・フォン・ティース
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ディタ・フォン・ティース
Dita von Teese
カンヌ国際映画祭にて(2007年
生誕 (1972-09-28) 1972年9月28日(51歳)
アメリカ合衆国ミシガン州ロチェスター
職業バーレスク・モデル
配偶者マリリン・マンソン(2005年 - 2007年)
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ディタ・フォン・ティース(Dita von Teese、本名:Heather Renee Sweet[1]1972年9月28日 - )はアメリカ合衆国バーレスクダンサーモデル、衣装デザイナー、実業家、女優バーレスクを復活させたジャンルであるニュー・バーレスクの代表的なスターのひとりであり、「バーレスクの女王」と称される[2][3][4]。現在、イギリス在住[5]
生い立ち

ミシガン州ロチェスターで三姉妹の次女として生まれた[6] 。母親はネイリスト、父親は技術士[6][7]イングランドスコットランドアルメニアドイツに由来を持つ[8]。彼女の祖母の1人は、アルメニア人の混血であり、アングロ・サクソン系アメリカ人の家庭の養子になった[9]。ディタは1940年代の映画的なスタイルと古典的なヴォンテージスタイルで知られているが、これは母親が好んで見ていたハリウッド黄金時代の映画女優や、父親が購買していた雑誌『PLAYBOY』のランジェリーなどに強く影響を受けている。また、年老いても黒く染めた髪、長い爪には赤いマニキュアを施し、アイライナーを欠かさず自身を飾り立てる事をしていた叔母の存在が、芯のある美意識の存在として一番影響受けた身近な人物として答えている。

5歳からバレエを習い、13歳で地元のバレエ団に入団。元々はバレリーナ志望であり、自信も持っていた[7]。後にバレエの要素をバーレスクのショーに取り入れている。カリフォルニア州アーバインのユニバーシティ高校に通っていた[10]。大学ではクラシカルな服装などの研究などもしていたが、やる事がこれ以上ないとの判断により退学している。

10代のとき、母親が最初のブラジャーを彼女にプレゼントしたことをきっかけに、下着に凝るようになった。15歳の時からランジェリーショップでアルバイトをし、最終的にはバイヤーとして働いた[11]
経歴

19歳でストリップ・ダンサーになった彼女は、ストリップの世界があまりにも個性がない事に失望。複雑なダンスに小道具やキャラクター(1930年代、40年代のミュージカルや映画からヒントを得て)を加えた独自のスタイルを作り上げ、バーレスクダンサーの方に転身する。芸名ドイツの女優ディタ・パルロに敬意を表して「ディタ」を採用した。2002年12月に雑誌『PLAYBOY』に登場する際に姓が必要になった為、電話帳から探して「フォン・トレセ(Von Treese)」を選んだ。しかし、同誌が誤って決めたものと違う名前となってしまったが、本人が気に入ったため、現在の芸名になった[12]

コルセットやラバーなどのフェティッシュな素材の洋服を身に着ける事、SM的な行為などを本来から好み、フェティッシュモデルとしての仕事を洋服やランジェリー、アダルトグッズのカタログなどを下半身も露なモデルとしてさまざまこなし起用も沢山された為に徐々にディタの知名度は広まる。長年にわたりコルセットを着用した彼女のウエストは56cmになり、コルセットを使用すると42cmまで引き締まる[13]

1999年2001年2002年に雑誌『PLAYBOY』で特集を組まれ、2002年には表紙を飾った。2007年のスペイン版カバーは現在の知名度と本業を前面に出した撮影が行われている。同誌に掲載された事により一夜にして環境が変わった事を本人はコメントしており、現在も関連するイベント等には欠かさず顔を出している。Steve Diet Goedde撮影による写真
マリリン・マンソンとの結婚

90年代に自分のサイトにて写真などを公開。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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